盛岡タイムス Web News 2014年  4月  26日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉363 岡澤敏男 転任後も振興団長を固執

 ■転住後も振興団長を固執
  尾崎文英師の札幌中央寺へ転住による報恩寺の後董に、永平寺貫首日置黙仙禅師の推薦によって尾崎師と同じく日置禅師の高弟である兵庫県北部の城崎郡三方村常光寺住職北村耕宗師と決定し、大正7年5月25日に招待状を発送することになった。新聞の報ずるところによると、招待状には報恩寺住職尾崎文英を筆頭に法類総代祇陀寺住職阿部霊純、末山総代久昌寺住職海野義岳、同龍谷寺住職岩崎徳明、同恩流寺住職細谷年輝、檀頭総代太田総六、菊池鯉之助、萓場精一郎、漆戸春治の名前が連署されていた。

  また、転住する尾崎師の身辺について「(中央寺)に晋山と同時に僧堂も開かるる由なるが、尾崎師は当市に於て熱心に計画中なりし仏教振興団は転住後に於ても依然団長として初期の目的を貫徹すべきは勿論報恩寺僧堂の師家を兼ねらるる筈にて、当分は密接なる関係を保ち事業完成の暁適当なる時期に於て団長並に師家の職を北村師に譲らるるなりと、因に振興団の寄付金も内閣各大臣初め京浜の有力者間に於て相当の応募あり着々進捗中なりと」と報じられている。

  ところが、その後2カ月余りほどたった8月上旬に北村師から「入寺を謝絶」するとの申し出があった。新聞では「種々なる事情の為」とだけ報じているが、関西方面の寺院関係者に報恩寺が名刹とはいえ盛岡へ転住することに何らかの抵抗があったのではないか。盛岡に対する何らかの抵抗感とは、明治9年に京都の臨済宗本山妙心寺より盛岡(北山)の南部藩主累代菩提寺聖寿寺の住職に転住した佐藤祖琳師のもたらした故事が流布されていたのではないか。

  祖琳師は明治維新で破却荒廃した聖寿寺の堂(伽藍)塔(五重の塔)を再建するために明治15年に復元再建運動を組織したが旧藩士、市、県民の協力が乏しく、残念ながら実を結ばなかったという故事だった。そのことはすでに360回のコラムにおいて『日進新聞』(明治15年2月)の記事で紹介している。

  北村師の報恩寺転住辞退の前例は尾崎師にもあったが、師僧日置禅師の説得によって翻意したのは、その背景に祖琳師の遺志を継ぐという密かな悲願があったのではないか。大正5年に尾崎師が岩手仏教振興団を結成し、その二大事業のひとつに旧藩祖歴代の塔所旧桜山を修飾し霊廟建立を企画したのはそうした素志の表れではなかったか。札幌中央寺への転住を再三辞退した理由も、また中央寺後董になった後も「岩手仏教振興団」の団長を固執したのも、あくまでも素志を貫徹したいという悲願だったのではないか。

  これは筆者のほんの推理に過ぎないが、43歳という若さで報恩寺後董を決意した尾崎文英には、そのようなダイナミックな悲願に呼応するような若い血を感じさせるものがある。

  北村耕宗師は日置禅師の説得に応じなかったので、日置禅師および尾崎文英師は再度各方面に適任住職を物色し、やがて新潟県中頸郡板倉村大広寺住職石月無外老師が日置禅師より推薦され、石月師も後董を了承したので、「当市の寺院及び信徒が再三会合し協議の結果、同師(石月無外)を招請することに決定」したと8月16日付『岩手日報』が報じている。

  石月師の経歴は「仙台の曹洞宗第二中学林創立当時の校長として令聞ありし道念堅固の道学者にして当市へも両三度巡錫されし事あり、本年七十二歳の高齢なるも钁鑠(かくしゃく)壮者を凌ぐものなりと」と伝えている。

  ■「五重の塔再建」明治22年5月3日付『岩手日日』

 「上田村桜山の聖寿寺に在る仁王堂は元聖寿寺の荘厳華麗を極めた頃の五重の塔の片われにてそれさへ今は頽破(たいは)に及び丈余の仁王尊も空しく外より拝まれ玉ふ有様なるをみて、花屋町の大工川村専太郎が発起し市内の大工と相談して太子講を取結び月々の貯金にて先の破損を修繕なし、追々は名々(銘々)の修業にもなることゆゑ五重の旧観に復せしめんとて頻りに世話を焼き居る由」


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