盛岡タイムス Web News 2015年  1月 17日 (土)

       

■ 1・17と3・11 手渡せ教訓のバトン 阪神大震災から20年


 

     
  震災後の火災で焼け落ちた神戸市新長田駅付近の商店街(1995年2月7日)  
  震災後の火災で焼け落ちた神戸市新長田駅付近の商店街(1995年2月7日)
 

 6434人が犠牲となった阪神・淡路大震災から17日で20年を迎えた。20年の歩みは、東日本大震災からの復興に歩み出したわれわれにも多くの教訓を与えてくれる。阪神での経験を東日本の被災地復興に役立てたいと赴いたボランティア、有識者も多い。二つの大きな震災から学び、行動し、伝えていくことが求められている。(6、7面に関連記事)

 「お姉ちゃんカメラマンかい。あんたもボランティアしいや」―。阪神大震災の年、避難所だった神戸市立大開小で出会った4年生の女の子。「ご飯配る係やねん」。胸につけたボランティアの黄色いリボンを誇らしげに見せてくれた彼女も30歳になっているはずだ。

  失われた日常を取り戻すため、「自分ができることをしなければ」といち早く気付いた人々は、大人も子どもも必死に行動していた。

  全国から多くのボランティアが駆け付けた阪神淡路大震災の発災年は「ボランティア元年」とも呼ばれる。避難所の運営や仮設住宅の在り方をはじめ、医療や介護、被災者の心のケアなど、その後の災害対策に大きな影響を与えた。

  阪神淡路大震災の発災当時、入社1年目。一人で神戸に足を踏み入れたのは発災から約3週間後の2月6日。岩手県からも医療支援やライフラインの復旧のため、続々と支援隊が送り込まれていた。混乱が続き、神戸周辺に宿泊先はない。訪ねた先の避難所の片隅に泊めてもらい3日間、被災地を取材した。

  中層階がつぶれて傾くビルや焼けただれた商店街。神戸市役所そばの東遊園地では救援物資の青空配給が行われていた。雑炊の炊き出しをしていたボランティアグループからは「野菜が足りない。岩手から来たなら送ってほしい」と声を掛けられた。

  寝袋と食料を詰めたリュックを背負い、やっとの思いでたどり着いた兵庫区の大開小は、岩手県が派遣した医療団の活動拠点。県の担当者からは「そんな無謀な取材があるか」と怒鳴られたが、布団を提供してもらい、活動への同行取材も許してもらった。

  「たんすも何もない座敷で寝ていたから助かった。花嫁道具なんていらんよ。何もいらん、いらん」「避難所で1日寝ていても何も打開できません。自分で切り開いていかなければ」。体育館や公園のテントで身を寄せ合う被災者やボランティア、このとき聞いた声、見た光景が記者の仕事を続ける原点になった。

  2011年3月11日、東日本大震災。こんどは本県が大津波の被災地となった。発災から間もなく4年を迎えるが、復興はまだ緒に就いたばかり。本県だけでも仮設住宅に3万人近くが暮らす。被災者のニーズと施策とのずれ、震災関連死の多発、コミュニティー崩壊の危機―。「東日本大震災で指摘されている課題の多くは、阪神・淡路で既に指摘されていた」との指摘も目立つ。

  大開小で出会った少女の真っすぐな視線、岩手の沿岸被災地で耳にした悲痛な訴えに応えるような生き方をしているか。恥じ入るばかりだが、足下を見つめ直し前へ進みたい。
(馬場恵)

【阪神淡路大震災】
  1995年1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源にマグニチュード(M)7・3の大地震が発生。神戸市などで観測史上最大の震度7を記録した。

  都市直下型地震による死者は6434人、負傷者は約4万4千人。阪神高速道路の橋脚が倒壊。住宅被害は約64万棟に上った。被害総額は10兆円に達し復興事業には約16兆3千億円が投じられた。


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