盛岡タイムス Web News 2015年  1月 17日 (土)

       

■ 〈阪神大震災20年〉 都市生活の「命綱」結んで 盛岡市水道部 盛岡ガス がれきと闘ったプロたち


     
   阪神・淡路大震災の派遣を振り返る伊東弘志さん、佐々木弘司さん(左から)  
   阪神・淡路大震災の派遣を振り返る伊東弘志さん、佐々木弘司さん(左から)
 

 阪神・淡路大震災では生活基盤の「ライフライン」が大きな被害を受け、盛岡市からも水道、ガスなどの事業担当者が被災地の応援に駆け付けた。その教訓は東日本大震災に生かされ、防災力が向上した。現地に赴いた人たちに当時の状況を聞いた。

  当時の盛岡市水道部からも水道の復旧応援隊として6次隊まで延べ33人の職員が被災地に派遣された。同市が活動したのは兵庫県神戸市兵庫区の約7千世帯が生活する地域の水道の復旧。当時派遣された職員は既に3分の2ほどが退職しているが、第1次隊の伊東弘志水道維持課主任(57)、第3次隊の佐々木弘司水道維持課課長補佐(51)に、現地での活動の様子や当時の状況を聞いた。

  同市水道部は、日本水道協会東北地方支部を通じた出動要請を受け、1月30日に第1次隊を派遣した。現地までは車中泊をしながら現地に到着したのは2月1日。伊東主任は「突き上げるような余震がまだ続いていた。家屋の倒壊に加え、道路の交通量も緊急車両が次々と通り、道路事情が悪くて現場にはなかなか近づけなかった」と振り返る。

  佐々木課長補佐は「陥没しているといっても、道路全体が陥没し、一番太い管が壊れていた。場所にもよるが木造の建物はほとんど壊滅。建物の中からチョロチョロと水が流れてくるが、それを止めるための止水栓も見えないような状態だった」と話した。避難所に入りきれない人が河川敷にブルーシートで小屋を造って暮らしていたことや銭湯に1千人くらいが列を作っていた光景を思い出すという。

  現地では水道関係施設が被災したため、どこに水道管が敷設されているかの詳細な地図もなく、最初はまさに手探りの作業が続いた。1次隊が活動を開始した当初は、水道管自体に水が来ていない箇所もあり、どこが漏水しているかも分からなかった。渋滞や現地の人が水道を使用する時間を避けての作業で、午前3時から漏水調査を開始し、同8時にいったん引き揚げ、仮眠後に再び作業を開始する日々だった。

  伊東主任は「夜の仕事があったので体力的にはきつかったが、なんとしても一日も早く復旧に結びつけたいという気持ちがあったのでできた」と話す。盛岡市の腕章をして作業をしていると「遠くからありがとうございます」とお礼を言われることもあった。

  同市水道部としては、大きな災害での水道復旧は阪神・淡路大震災が初めてだった。知らない土地での初動体制の構築、作業の進め方、気持ちの持ちようなど、阪神・淡路大震災の経験が中越地震、岩手・宮城内陸地震、東日本大震災津波と被災地での復旧活動に生かされていったという。佐々木課長補佐は「どんな災害があっても1次隊が情報収集し、材料を理解している人が入っていくということは阪神から積み重なってきた経験」と話す。

  阪神・淡路大震災から20年を迎え、佐々木課長補佐は「建物は変わっていると思うが、道路形態は変わっていないようなので自分たちが直したところが、20年でどれくらい変わり、復旧したのか行ってみたい」と復興状況を自身の目で確認したいと思っている。

  一方、ガスの復旧にも全国のガス事業者が総動員された。復旧にあたった盛岡ガス供給部の三上信幸部長は、「阪神の場合、86万件が止まった。盛岡の場合は総戸数で5万件。想像を絶する範囲が止まった。日本ガス協会からの救援要請で1日当たり延べ2千人規模の災害復旧で、応援に行って規模の大きさに驚いた」と話す。

  千葉昭夫工事課長は、「最初に行ったのは東灘区で、がれきの山で、倒壊した家の上に女の子の写真があり、皆で手を合わせて作業にかかった」と振り返り、現地の悲しみに向き合った。東京のオウム事件も重なり、騒然とした世相の中で、日常生活の回復に全力を挙げた。
 


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