盛岡タイムス Web News 2015年  1月 18日 (日)

       

■ がれき越え望んだ故郷 滝沢市 野村康一さん 母(兵庫県西宮市)訪ねた1・17 陸前高田では仮設建設に力 阪神大震災20年

     
  20年を迎えた阪神・淡路大震災の当時の様子を語る野村康一さん  
  20年を迎えた阪神・淡路大震災の当時の様子を語る野村康一さん  


  滝沢市在住の野村康一さん(46)は、震災で祖母を亡くし、兵庫県西宮市の実家も倒壊した。阪神・淡路大震災から17日に20年。「あっという間の20年だった。阪神は復興は早く、5年の間に終わったなと感じた。ただ、帰るたびに見る西宮の商店街は、傷跡が残っている。あの地震で店が全部倒れ、建てる力がなくて歯抜けの状態で商店街でなくなっている。空き地が多く、あれを見るとまだ爪痕が残っていると感じる」とこの20年を振り返る。

 震災当時、勤務で名古屋にいた野村さん。西宮市の実家には、母親の秀子さん(77)が一人暮らしをしていた。「大変なことになった。家も壊れて、自分もどうしていいか分からない」。地震の15分後、かろうじてつながった電話から母親の声が聞こえてきた。

  仕事に行くのを取りやめ、すぐに西宮に向けて車を走らせた。高速道路を降ろされ、橋は落ち、兵庫が近づくにつれて被災のひどさが実感できた。途中で車を置き、徒歩で実家まで向かい、なんとかたどり着いたのは夜の8時頃だった。

  「びっくりしたのは、夜なのに空が赤い。それはあちこちの火事のせいで、当然神戸市などが燃えていたのもあって、真っ赤だった。歩いていて一番怖かったのはガス臭さ。たばこ吸うなという張り紙があちこちに張ってあった。家の近くまで行くと、住宅街なので、自分の育ったまちの建物が倒れ、正直自分の家にたどり着くまでにがれきの中からも声がするような状態だった」

  門に貼られた張り紙で母親が母校の香枦園小に避難していると知った。「真っ暗な中で、運動場だけがぼんやりとたき火の明かりがあり、寒かったのでみんな教室の中で毛布にくるまって寝ているような状態。片っ端から『野村秀子いますか』と声を掛けた。理科室や家庭科室がまさか安置所になっているとは知らずに、そういったところも探した」。1時間以上掛けて母親を捜し出し、顔を見た瞬間は涙が出た。

  震災では、多くの親戚を亡くした。須磨区で暮らしていた母方の祖母は当初行方が分からず、1カ月後に搬送先の病院で再会したものの意識不明の状態で、3カ月後に他界。両親を目の前で亡くし、ショックで記憶喪失になった親戚もいた。

  そんな中、人の温かさを改めて気付かされた。母親が一人暮らしをしていることを知って親友数人が様子を見に来てくれ、家屋の後片付けは名古屋の知り合いが手伝ってくれた。5月から会社で被災地復旧の仕事を始めた時も、野村さんが被災したことを知っている協力業者が名古屋や岐阜、静岡から応援に来てくれた。

  大手ハウスメーカーに勤務していた野村さんは、自分自身が助けてもらった経験から、東日本大震災津波が発生した時、手を上げて陸前高田市で応急仮設の建設に従事した。野村さんは「当然、阪神の時に助けてもらったときの人に恩返しをするわけではないが、あの時に感じた人の温かみは言葉に表せない」と話す。

  「阪神大震災とはイメージが全然違い、完全に津波の被災だった。間違いなくこの復興は10年以上掛かると思った。復興はどこまで行っても人の力だと思っている。阪神淡路震災は人口が多いし、周りに京都や大阪などの大都市があるので、復興がめちゃくちゃ早かった。ただ、この東北の復興に関しては、近くに大都市があるわけでもない」。東日本大震災津波と阪神・淡路大震災の違いも感じた。

  野村さんは24年間勤めた会社を退職し、昨年10月、滝沢市にリフォーム会社「豊建」を設立した。出発は滝沢・盛岡になったが、将来は沿岸にも店を構えたい考え。「少しでも復興の手伝いができればと思って、そういった形で起業させてもらった。それが最後の僕の人生の仕事かと思う」と話す。


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