盛岡タイムス Web News 2015年   1月   28日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉420 伊藤幸子 「『晩鐘』の世界」


知る知らぬ次々に別れあゆみ来し曠野(くわうや)かへり見る如きはるけさ
                                         土屋文明

 「大作を書きあげて、今は湯上りの気分です」と佐藤愛子さんが語られたのは平成13年5月25日、世田谷文学館での佐藤愛子展「自作を語る」記念講演のときだった。第48回菊池寛賞受賞の「血脈」上中下巻発刊、65歳で雑誌連載を始めて12年間書き続けた3400枚の大作が完成。そのとき「本当のところ湯上りで適当にのんびりした心地よい気分なのです。こう思えるのも、苦しんで死んだはらからへの鎮魂をなし終えたと思うからなのです」と語られた。(この日、会場で聴講した)
  あれから14年、私は昨年12月10日刊の氏の「晩鐘」を机上に師走の雑事をくぐりぬけた。そのあとがきに、「佐藤さんは九十まで生きます」と言われた超常者の言葉がよみがえり、あと2年しかないと気付いて書き始めたという。

  昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で第61回直木賞を受賞。夫、田畑麦彦さんとの離婚、倒産の顛末が描かれ、私も掲載誌を買いに走ったことを昨日のように思い出す。

  「手形の束を入れた紙袋を提げて、ニコニコ顔でやってくる男。名前を知らなくても『あの詐欺男』で通る男。アッケラカンとしていつも足を引いて明るい男」、今回「晩鐘」の主人公藤田杉の夫畑中辰彦の描写。倒産、偽装離婚、その間に女を引き入れて本当に離婚させられた杉。しかも家は抵当に入り多額の借金に苦しめられる日々。「その頃から何年もたって、私の知らないところで彼は明るい詐欺師になっていたのです。明るい詐欺師…こういう男を書くとまさに藤田杉の独壇場だね、といわれる作品を書きたいと思ったりしています」

  こうして、彼が明るい詐欺師になったように、藤田杉も人の悪い小説家になった…と述べる愛子さんの筆には、人間の持つ面白さと大いなる愛が込められる。夫に浮気をされても「私みたいな女房といたら夫が他の女に魅(ひ)かれるのももっともだ」などと思えるほど度量の広い女がどれほどいるだろうか。かつて「血脈の人々を理解することが愛」と述べられた愛子さんの、はらからに注ぐまなざしに打たれて細密な枝葉に分け入ったものだった。

  「今はもう辰彦をわかりたいとは思いません。わからなくてもいいのです。人が抱えている深淵(しんえん)は誰にもわかりません。わからないままに『かく生きた』という事実の前に私は沈黙して頭を下げる、それだけです」として「完」と書かれた一巻。でも少し休まれて、また清浄と明けの鐘声の聞かれますように。

(八幡平市、歌人)



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