盛岡タイムス Web News 2015年   1月   28日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉255 三浦勲夫 あったかになったら


 介護施設で暮らしている母親(96歳)は寒い冬季間は、われわれが住む実家には一時帰宅しない方がよい。昨年12月1日に車いすタクシーで帰宅してから2カ月余りは、われわれが施設に面会に行っている。インフルエンザ、風邪などは厳禁で、訪問者は少しでも微熱があれば中に入いれない。1月中旬に訪問したら、微熱(37度)のため面会不可能だった。数日後は車の暖房風が顔に当たらないようにして行った。そうしたら平熱であった。あの微熱は車内暖房のせいだったろう(体温を額で測る方法である)。

  それはそれとして、母を家に連れ帰るのは暖かになってからとなる。母が初めて介護施設を利用したのはデイサービスで、4年前の3月1日、東日本大震災の10日前だった。あの年も寒いころから「あったかになってからね」と母は言い、できるだけ施設行きの日を延ばした。デイサービスがショートステイとなり、入所となり、あの日からもうじき4年になる。今は訪問する自分が母に「あったかになったら、また家に帰ろうね」と言う。施設での生活に慣れた母は落ち着いてうなずいている。

  今は寒のうち。しかしあと1週間で節分、立春、となる。2月の頭は冷い空気の中にも、どこか北国の春が感じられる。早ければ2月中旬、大事を取れば3月初旬に一時帰宅ができるだろう。春間近を感じるこの頃、これは一年の中でも気持ちが前向き、上向きになり、明るい青空を仰ぐ時季である。今この文を書いている日曜日も、そのような日である。なじみの川沿いの遊歩道に行きたいなあ、と思っている。行った後の感想はどうだろうか、とそれが楽しみである。(感想…2`をゆっくり走った。空気がおいしかった。)

  話は変わるが、このごろ満員のバスに乗ると、席を譲られることがある。ポーチを身に着け、手荷物を持ち、リュックを背負う姿だけが理由ではなさそうだ。もうじき後期高齢者になる。座席を譲られる親切に感謝しつつも、それを期待しすぎてもいけないぞ、と思う。体力、気力、肉体と精神の健康を年齢が試している。体力の点では、ジョギングと散歩をしてきたから、自分でも感覚的に測定できる。繋温泉まで10`は走れる、と心の中で思っているが3年前に、そんなに走ることはやめた。川の遊歩道でその半分、あるいは3分の1ぐらいにとどめている。

  立春を間近にすると、昔から心が弾む。昔を思う時、物心がついてからの年の数だけ春間近のころを思い出す。時間を直線と考えれば昔ははるかに遠い。霧の彼方に幼児期がかすんでいる。時間をクルクル上がる螺旋(らせん)と考えれば、同じ時季を何層にも重ねてまっすぐ見下ろせる。無邪気な幼児の一年は、老人の一年よりも感覚的に長い。だから、人間は円錐(えんすい)形の富士山のような山をクルクルと螺旋状に登る形となる。

  精神的な時間は伸縮するが、自然界の時間は同じリズムで四季を繰り返す。ここでは直線と螺旋が同じように見える。本来は螺旋なのだけれども、巨大なので、そこをたどる人は直線のように感じる。しかし人の一生は短いから、時間がたつにつれてとんがり帽子の頂上に近づく。「冬来たりなば春遠からじ」だが、春はすぐにやって来る。「あったかになったら」の言葉は、それを待つ希望でもあり、今を延ばす希望の言葉でもある。

(岩手大学名誉教授)



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします