盛岡タイムス Web News 2015年   1月   29日 (木)

       

■  〈風の筆〉86 沢村澄子 あひるの「あ」B


 末の妹が母親似で美人であると、83話に書いた。

  昔、実家で電話が鳴ると、その三女がまずいそいそと受話器に向かい、それはもう、スズムシがウグイス嬢にでもなったかのような美しい声で名乗るのだった。

  ところが、自分宛てでないことが分かるやいなや、「ネエちゃん!デンワ!」とその声はトツゼン魚屋のおじさんのガラガラ声みたいなのに変わるから、オカシイでしょ。同じ人間のやることでないでしょ。ナニよ、その裏表。と、当時は思ったが、ナーニ、そこでそう声が変わらないようなやからこそ、社会性のない野生児と呼ばれるのだと、大人になるにつれ思い知った。

  何が正しいかは分かりません。そして、どうでもいいような話なのですが。

  それでも、わたしがそれからン十年もこの声の変調を気にしているのは、どっちが三女の本当の姿かということではなく、相手によって態度を変える人間、の良しあしについてでもなく、われわれ人間に本当の姿なんてあるんでしょうか、ということなのだ。

  自分にとって好ましい相手からの電話だと思うからスズムシ声が出るのであって、自分に関係ないものだと知れば無駄なサービスはしない、という合理主義に徹している三女。彼女は一見、相手との関係であたかも自分の姿をも変えているように見える。しかし、本当に相手の影響で自らを変えているのだろうか。実は、その本性こそがタマムシ色で、そしてそれは、三女に限らず、わたしも含めた全ての人間にいえることではないのだろうか。

  つまり、世に「豹変(ひょうへん)」といわれるもののどれもこれもみな本当で、これという、我という、実体なんてないんじゃありませんか…と、言ってみたいのだ。

  それで、3週にわたっての「あ」の話なのだけれども。

  「あ」って何なんでしょうね。この段になってまだ結論がでないのも困りものだが、実はよく分からない。

  ただ、わたしはあひるの「あ」とあゆみちゃんの「あ」は違うんじゃないかと思っていて、「あひる」を構成する「あ」は、長年「あひる」の一部であるうちに「あひる性」か「あひる調」みたいなものを帯びているような気がするし、「あゆみちゃん」を請け負っていた「あ」は、やはり少しずつ「あゆみ化」が進んでいるように思う(「あゆみちゃん」は固有名詞だから、いよいよその「あゆみ化」の特定は難しいけれども)。

  つまり、「あ」も人間と同様、その単独性について言及するのは難しいものであり、環境、関わりの中で形成される何かを自身が常に帯び、さらにそれを自らの性格として飲み込んで、その性格をいよいよ創り変えながら歳月を生きるものなのではないだろうか。

  とにかく、自分に実体がないと思えば楽ですよ。そして、「その気になる」という言い回しがあるように、その「気」を帯びただけでも、人も言葉も「あ」も変容するというのなら、せめて、できるだけいい「気」の中に日々この身を置いて気持ちのいい自分になり、そこからまた気持ちのいい暮らしを生産してゆきたいと、昨今とみに思われてならない。
     (盛岡市、書家)


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