盛岡タイムス Web News 2015年  9月 3日 (木)

       

■  〈風の筆〉116 沢村澄子 「雲は天才である」


     
   
     

 盛岡に越して来た28年前、ここでの暮らしがそれまでのそれとあまりにも違って、わたしは大いに当惑した。けれど、歳月がたつにつれて少しずつ少しずつ慣れて、今はもうほとんどのことに驚かない。それでも、盛岡の雲の美しさには、きのうもきょうも感動する。歳月を経ても、その美しさはまるで変わらない。

  雲は天才である、と、啄木は言ったそうな。しかし、天才・石川啄木でなくとも、ここで空を見上げた人なら、誰にでも言えそうな気がする。雲は天才である。

  これまで、ぼんやり雲に見入って立ちすくみ、後ろを通る人に不審そうな視線を投げかけられたのは一度や二度ではなかった。しかし、美術館で名画に見とれるのと同じである。いや、入場料はかからないし、鑑賞者の混雑にもみくちゃになるということもないし、しかも、美術館には入りきれない迫力の超大作。さらに刻々と変わる。色も形も変わり続ける。そして、あ…、消えちゃった…の雲たち。

  その在りようを眺めていたら、抽象画家たちの仕事が陳腐に思えて仕方なく、雲の方が数段、いや、絶対的に美しいと思った。

  それは、わたしがのんきな書家だから、自分のことは棚に上げ、人には辛辣(しんらつ)な人間だから、あっさりそう断じられるのだろうけれど、じゃあ、なんでそう感じられるの?と、何年間も雲を見上げて自問もした。

  どうして、雲が美しくて、どうして人間の仕事、わたしの書が美しくないのか。

  結果、雲は現象だから美しいのだと思った。彼らは何もしていない。狙ってもなく、願ってもいない、無論コンセプトなどない、ただ在る。水蒸気がね、たまたまこれくらいあってね、きょうは気温が高かったでしょう、それで、地形がこんなもんなところへね、風がこう吹いたもんだからね、いやはやこんな感じになっちゃったの…、みたいな感じ、それがいいんだ、と。

  それで、そこからしばらく自然≠求めて書き進み、年月がたち、そんな調和がそれなりに取れるようになってきたかな、と思った頃に、あの震災である。

  わたしはあの地震や津波で家や身内を亡くすことはなかったけれど、それまで自身長年求めていた美≠ニいうものを失くした。かつて恋うて恋うてやまれなかった美しさというものに、心が動かなくなった。

  一気に自然から人工へ。その180度の転換は、いまだ自分自身が驚く、なんでまた、急にそんなこと…みたいな突拍子もなさに在る。でもまあ、仕方ない。そうなっちゃんだから。そこはそれ、昔の名残で雲っぽい。

  それで、きょうの作文も雲っぽいね。どうにも支離滅裂で説明がつかない。まさに湧いてくるのをただ書き留めました、って感じで、こんな未整理なのを新聞に載せていいのか分かりませんが、こうなったんです。

  いずれ、調和は破壊の中で生成するものでしょう。現象でしかない人間が、現象として何を希求するか。そんなことが、雲を見上げていて、字を書いていて、安保のニュースを聞きながら、日々思われるわけです。
     (盛岡市、書家)
 


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