盛岡タイムス Web News 2015年  9月 17日 (木)

       

■  〈風の筆〉118 沢村澄子 「墨を拾う」

 

  拾うと言っても、道端にあの固形墨が転がっていて、小学生のお習字カバンに入ってるみたいなやつがアスファルトの道にコロンと、それを拾うというのではない。正確には墨を回収する≠ネのだが、それはそれで廃品回収みたいで妙な感じで、やはり拾う≠ニ言いたいのだ。

  書いた後、紙の周りに飛び散った墨を、毛氈(もうせん)の上から、その外側のブルーシートの上から、丹念に拾い上げる。ぽってりした小ぶりな筆や時にはスポイドなど使いながら、墨の飛沫(ひまつ)を集めて回る。

  「それ、また使うの〜」と友達は叫声を上げるけれど、当然でしょう、いくらだと思って。道端に1円、10円、落ちてたら拾うでしょ。百円玉なら絶対拾うでしょ。時には、コップ1杯分、ボウルに半分の量さえも回収される墨は、常に数百円から数千円に値する。拾うのが当然、回収するのが当然、また使うのが当然、と思うのだけれど、こんなことをしてるのは、もしかして、わたしだけ?

  この一週間ほど広い場所を借りて大作を書いたのだけれど、秋の長雨、雨、雨、雨で、全く乾かない。1日に2、3回しか書けない。扇風機やドライヤーで対処するも、それでも半日は水たまり、いや、墨だまりができている。もっとも、1回にバケツ半分ほどの量の墨をばらまくのだから、そう簡単に乾くはずはないのだけれど。

  こうなってくると、手で磨っていては間に合わないから、墨磨りは墨磨り機にお願いする。高価な墨がずずいと液体になってバケツに注がれ、ええいと一筆、ああ、水たまり。いや、墨だまり。あ〜あ〜あ〜。自分の今の行為が良かったのか悪かったのか、壁に張って眺められるのは半日後。その間、ひたすら墨を拾う。そしてその後、反故で毛氈をはたいて回るのだが、当然、びしょびしょ。

  今回の長雨の唯一の晴れ間には、じゅうたんみたいな毛氈を3枚、屋根の上に並べて干した。いやはや、2階に持って上がるのに、その重いこと重いこと。ぐっちょりで。抱えて階段からのけぞり落ちそうなくらい、重かった。

  幸せな人間だと思う。自分のこと。こんなこと、好きでなきゃできない。紙も墨も丸められればただのごみ。何万円のごみをごみ袋にぎゅうぎゅう詰めて、次の金曜の朝、ごみステーションに出す。

  遠い昔、学生の頃、日本間と呼ばれる制作室で書いていたら、一人の先輩がやってきて、わたしのあまりの下手さに耐えかね、「ちょっと筆を貸せ」と言って、書いてみせてくれたことがあった。書き終わると筆を投げるようにして、「いいか。白い紙なら売れるが、お前が触ったら、お前が何か書いたら、ごみにしかならないことをよく覚えておけ!」と言われた。

  今回墨を拾いながら、その日のことを思い出したのである。先輩が出て行った後しばらく、わたしは窓から佐渡に沈む夕日を見ていた。真っ赤なお日さまが少しずつ少しずつ島の向こうに隠れて行って、少しずつ少しずつこちらにも闇が訪れた。その先輩は数年前、スキー場で脳出血に倒れ、50歳になるかならないかの若さで亡くなった。学生の時から飛び抜けて優秀で、市展や県展の賞をいつも独占していた人だった。

  稼いだ金を紙にして墨にして、書いて捨てて、こぼれた墨を拾いながら、散々ごみを作って、わたしはきょうも書いている。うれしいのか悲しいのかよく分からないまま、50歳を過ぎたきょうもまだ書いている。
     (盛岡市、書家)


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