盛岡タイムス Web News 2015年  9月 17日 (木)

       

■  〈日々つれづれ〉291 三浦勲夫 グラデーション

 

  プリズムによる日光の屈折は波長のグラデーション。7色ともいい、5色ともいう。文化によって区分は違う。さて、グラデーションは普通、色彩だが、時間にも、季節にもグラデーションは存在する。それを強く意識する時間帯がある。

  まだ暗い朝3時50分、コトンという音が玄関から聞こえた。新聞である。早速(!)、取りに出ると外はまっくら。当たり前。家人を起こさぬよう、キッチンで見出しと広告を拾い読む。国会は?県議選は?日中韓関係は?ドイツを目指して歩くシリアの難民は?

  日本は平和だ、世界の戦争、戦闘から遠い。この平和を守るために、二つの違う考え方がある。国政選挙ではないが、県議選投票がきょう(9月6日)だ。日曜日。まずは自分の健康が問題だ。暗いけれども、歩いてこよう。すぐに明るくなる。4時20分、「青山町を一回りして来るよ」と睡眠中の家人に言い残す。そして、一時間余り歩いた。

  歩行中に暗闇が、ぼんやり白み、うす明るくなり、やがてはっきりと朝の明るさになった。闇の中で、新聞配達の自転車の音が、背後で止まっては動き、動いては止まる。後をつけられているみたいで、気になる。照明が明るい場所は、「みんなの交番」コンビニだ。ホンノリ、白くなりかける時刻には「健康ウオーク」の他人を見る。自分も今朝はその一人だ。曇り空の下でも、5時には、はっきりと明るい。「目に著(しる)し」。

  こうして思い出す。日本語のグラデーション。宵、夜中、暁(あかつき)、曙(あけぼの)、東雲(しののめ)、そして朝(あした)へ。夜間を三分すると、宵、夜中、暁(あかつき)。暁はまだ暗い夜のうち。しかし、やがて、空が白み始める。その頃合いが暁の原義である。白み始めると、曙(あけぼの)、東雲(しののめ)、あさぼらけ、など。無彩から有彩へ。古典日本語は、古代・中世日本人の時間感覚を秘める。今はない。夜は欺かれた。

  歩くこと。それは、闇、明るみ、光を、五感で感覚する。古典日本語のきめ細かさを体感する。歩く前、感じていたのは、自分の「季節外れ」「時間外れ」感覚だった。盛夏に長袖シャツを着た。日焼けに弱い皮膚を守るためだった。盂蘭盆(うらぼん)後の涼気の中で、半袖シャツを着て、腕を出した。ほてりを冷やすようで、気持ちよかった。季節外れではないか。でも、年相応か。そして、夜から朝への歩き。この時間外れ。

  ただし、この日の朝は、長袖シャツが、季節にピッタリだった。帰宅が5時28分。1時間余り。おかげで、夜の闇から、明け方の曙光、すっかり明けた朝のすがすがしさを、肌と、言葉で、味わった。早起きの収穫、三文の徳。

  帰宅後は、犬の散歩。稲穂の間からスズメたちが飛び立つ。50羽ほど。個体数減少のスズメ、イナゴ。貴重な生物ともなったスズメ。稲穂は金色、木の葉は、赤や黄に色づく。秋空は明るく澄む。その「明るさ」が「秋」の語源となる(一説)。収穫後、木の葉が枯れ落ちた後(これも「空き(あき)」)は、暗い冬へのグラデーション。「冷(ひ)ゆる冬」に向かって、灰色の濃淡と黒。無彩色のグラデーションとなる。言葉豊かに、日本語は時刻と季節を追った。地球自転による朝、昼、夜、地球公転による四季。これらの変化を古い日本語はきめ細かにとらえ、伝えてきた。グラデーションとして。
   (岩手大学名誉教授)


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