盛岡タイムス Web News 2015年  9月 23日 (水)

       

■ 戦後70年不来方の星条旗B岩手大学 学長の機転で事件回避 GHQのイールズ レッドパージに来校


 

     
  当時の岩手大を懐かしむ大沢さん  
  当時の岩手大を懐かしむ大沢さん
 
     
  接収当時に残された米軍によるペインティング(岩手大工学部一祐会館)  
  接収当時に残された米軍によるペインティング(岩手大工学部一祐会館)
 

 占領軍は日本の教育改革に乗り出した。6・3・3制導入や教育委員会設置など、軍国主義が復活しないよう米国式の民主教育を強要したが、冷戦時代が到来し、思想的な圧力も加わった。連合軍最高司令部の民間情報教育局顧問ウォルター・クロスビー・イールズは、マッカーサーの肝いりで大学から左翼思想の排除を宣告し、学生の反発による「イールズ事件」を招いた。岩手大学に1950年に来校した際、当時の鈴木重雄学長がイールズ本人を前に、「うなぎ」とあだ名し、機転で衝突を回避した逸話が伝えられる。(鎌田大介)

  連合軍による民主化は、日本国内の労働運動や学生運動を刺激した。中ソとの対立が始まると、米国は共産主義を阻止する占領方針を打ち出した。イールズは1949年から全国の大学を回り、教授陣に対するレッドパージ(反共)を説いた。東大総長はじめ思想的な学者や学生は抵抗し、「イールズ声明反対闘争」が起きた。

  50年5月18日、イールズが岩大にやってきた。米軍宿舎に接収された工学部は47年3月には返還されていたが、その間に校舎は荒れ果て、構内には米兵があちこちに落書きを残していた。来校の直前、東北大では左翼学生が実力でイールズの講演を妨げ、事件化していた。岩手大学にも同調の動きがあり、学内は緊迫感に包まれた。

  同大創立50周年記念誌によると、イールズは工学部の講堂で「大学の自由」と題して講演した。鈴木学長は演壇の支配者を前に、「イールとはウナギのことである。ウナギは料理の仕方で実にうまいものだ。話を言うのは言わせておいて、これを味わうのは諸君が自分で決めることだ」と紹介した。双方をけむに巻いて解きほぐし、ユーモアのうちに学問の中立を示唆した。

  拓殖大名誉教授で、岩大工学部卒業生の吉田登美男さん(86)=横浜市都筑区=は、そのときのことをはっきり覚えている。「鈴木学長がそんな口をきいたのは、当時、本当に勇気あることだった。イールズはウナギと紹介されて、気色ばんだように見えた。しかし今から考えると、鈴木学長とイールズが示し合わせて、そのようなやりとりをした可能性もある」と話した。イールズもジョークで返す余裕を見せた。

  吉田さんは工学部の同窓会誌で、「イールズが来て講演をする当日が来ました。講演会は工学部の大講堂で開催しました。キャンパスの中には米軍がMPのヘルメットをかぶって、自動小銃を持って数人立っていました。目つきの悪い私服の刑事がたくさんウロウロしていました」と回想する。その際は事なきを得たが、やはり占領軍の威圧には抗しきれず、数人の教授はパージされたという。

  岩手大名誉教授で、当時は学芸学部2年だった大沢俊成さん(85)=盛岡市=は、イールズの来校当時について、「教育制度が6・3・3制に変わり、そのために教育使節団が来た。岩手県に教育委員会が初めてできた。日本が再び軍国主義にならないよう、教育を変えるためだった。旧制大学には押し付けに反対する運動があったが、できたばかりの新制大学は混乱していた」と振り返る。

  「イールズが来たときは、多くの学生たちは、まだ大学が開校前でキャンパスにいなかった。工学部が駐留軍の宿舎になったり、これからどうなるものやら、『駅弁大学(全県に1大学)ができるそうだ』、と皆で言っていた。東北大、北大のような帝大では、すでに大学らしい講義をしていたが、大学になった時、大学教授は元旧制高等学校の教員が多かった。講義を始めるとき、よく耳にしたのは、『前回は何を話したっけ』ということだったりした」と回想した。

  今から思えば、新しい国立大学に学問の自由と自治を確立するためイールズを、ぬるりとうまく手放したのは、賢明なことだった。


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