盛岡タイムス Web News 2015年  9月 24日 (木)

       

■  〈風の筆〉119 沢村澄子 「卒意について」


 「卒意」という書道用語がある。「率意」とも書く。この語意説明は難しいが、対義語が「用意」「作為」など。

  かといって、「不用意=卒意」ではない。わたしは「卒意」を「意の終わるところ」と捉えていて、じゃあ、と今度は「意」とは何かが気になり始めるが、そっちに行かずに余談に転ぶと、「卒」も「率」も字義(※)は「終わる」。「率」の方は糸の染め汁を絞り切っている図で、中央に糸らしきものが見え、その左右に飛び散っているのがその汁。一方の「卒」は、真ん中に「人」という字が二つ並んでいるような部分が襟を表し、中国では昔、亡くなった人の着物の襟を閉めてその魂が肉体から出ていかないようにしたのだという。二つの文字が生まれた背景はこうも違うが、終わりは終わり。

  書道科に入学してすぐ、まだ講義の始まらない春休みに先輩に付き添われ、新入生はおのおのその先、自主練習する古典を選んだ。書にもモーツァルトやゴッホやシェークスピアに匹敵する古典がある。在学中に、広く浅くと言っては叱られるが、数々の必修古典を修めていく一方、自ら選んで時間をかけ、徹底的に学ぶ古典、その選択を諸先輩が手伝ってくれたのだ。

  書道全集をどさりと積まれて、「これはどうだ」「これもいいぞ」なんて言われながら、わたしがいくつか選んだものを見てある先輩が言った。「何だ、オマエ、ソツイの書ばかり選ぶな…」。

  こうして、ハジメマシテはソツイ、と音(おん)で飛び込んできた卒意。もちろん、漢字も意味も知らなかった。何も知らないのに、出合う前から自分が求めていた卒意。この志向は強烈というか、非常にハッキリしていて、今でもわたしは卒意でない書にほとんど興味がない。つまり、この世にゴマンとあふれている書のほとんどに興味がない。

  と、書くと、いよいよ気になるその内容なのだが、どうにもやはり解説は難しいのである。夕べも電話で「沢村さんの卒意って何?」って聞かれたけどうまく答えられなくて、「常に状況に開かれてること?」なんて答えたら、なお分からないって。「こちらが無であればあるほど対象は本質を開示するでしょう?」って言ったら、返事はこなくて、話は終了。

  しかし、わたしは素直でない人がキライ。意固地な人がキライ。ヘンなプライドで身を守り、見えないナタか刃物を振り回しながら暴れているその保身の衣の透明なこと。裸の王様に向かって子ども以外は誰も何も言わないけれど、そんなちっちゃなものに固執して、どんなに大事なものをいつまで壊し続ける気か、と叫びたくなる日がなくならなくて、そんな日ほどわたしはいつもより丹念に墨を磨る。欲だらけで、その欲に翻弄(ほんろう)され、どんなに調和を壊していても気付かず、自らをも傷めながら、その手も口も欲でベタベタなわたしたち。くだらないその小さきものを捨てれば、がぜん大きな調和に出合うことを、知ってか、知らずにか、である。

  ところで、昨年だったか、一昨年だったか、五島美術館で宗峰妙超の「梅渓」と書かれた書の前で足が止まった。自ずと「あぁ…。これはいい」と思われたが、同時に「これがどういいかは表し難い」とも思った。ただその時、かすかに「透明な意志」のようなものを感受したような気がして、改めて、意とは何か、意の終わった先にあるもの、そこに何があるのかについて、あの日からずっとわたしはぼんやりと考えている。
  ※参考 白川静著『漢字類篇』
     (盛岡市、書家)


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