盛岡タイムス Web News 2015年  10月 8日 (木)

       

■  〈風の筆〉121 沢村澄子 「納豆の食べ方」

 
 納豆をどのようにして食べているだろうか。

  わたしの場合、まず、あのきゃしゃなふたを剥ぎ取り、たれの小袋を取り出し、納豆の上にかぶさっている薄いフィルムを取り除くと(その際、糸を断ち切るのにそのフィルムをくりくり回しながら同時に引っ張って)、いったんパックをテーブルに置く。そして、たれの半分からその日の気分で3分の2ほどを加え、残りのたれを流しに捨て、その小袋も捨てて、それからげんこつにした右手で箸を握ってぐりぐりとかき回す。どろどろ白くなるまでかき混ぜるか、数回混ぜて口に運ぶかは気分や体調次第。しかし、かき回し終わるとそのまま納豆を一気に口に放り込むのはいつものことで、当然、瞬く間に食べ終え、箸の先のねばねばをティッシュでぬぐい、それから空のパックをごみ箱に捨て、何もなかったかのようにしてから、他の食べ物にとりかかる。つまり、納豆はいつも、必ず最初に食べる。

  お茶わんが汚れるのはイヤなので、ご飯にのっけてといういただき方はできない。パンにのせるのは大丈夫。食パンの上に納豆を広げてチーズやのりやシラスなどをかぶせ、オーブントースターで焼く。上手に食べないと納豆を落としてお皿が汚れるから、食べるときには大口を開けつつも強度の緊張を伴うけれど。

  この納豆パンは「水戸黄門」に出ていた女優、由美かおるさんの毎朝食のメニューだそうで、へ〜っと思ってから十年余り、時折まねて食べてみるが、いくら食べてもあんなに色白にもスタイルよくもならない。

  ネギと一緒に卵焼きにというのを年に数回。チャーハンに入れたことはない。カレーにのせたこともない。カレーがまろやかになっておいしいのだそうだが、お皿が納豆で汚れるのは…。いやしかし、わたしはどうして納豆で食器が汚れるのがいやなのだろう。カレーで汚れるのは平気なのに。

  先日、ある人から突然「文字の書き順には何の意味があるのか」と聞かれた。問われた真意がよく分からなくて、「特にないんじゃないですか。書きやすさくらいで」と答えたら、先方は「学校で習うのと違う書き順で書くために文字の形が違ってきてしまい、自分には読めるが、他人には読めない字になる」という。「汚い字で」と言われてパッといろんなことが頭をめぐったが、一気にいろいろ思ったがゆえに「文字の誕生からしばらくは特に顕著に書き順の変更が行われましたが、それは書きやすさに準じてのことでしょう」と呼応しない返答しかできなかった。それがずっと悔やまれていて、きょうこれを書くことに。

  なぜ標準的な筆順を変えてまでそう書きたいか。楽だからだ。人間の身体運動や心的動向には個々の持ち味が大きく反映されるだろうから、必ずしも全員に学校で教わった書き順が快適とは限らない。自分に書きやすいように筆順を変えて書くことが度重なるうち、その文字の形が他人と違ってくるということはごく自然な流れの結果に思われる。

  動線が変われば、そこに記される形も変わる。問題はそれをよしとするか、ダメなものと認識するかだ。

  納豆の食べ方一つにしても、おのおの々、個々で実は随分違うものではあるまいか。書き出してみると、わたしの納豆の食べ方も決して美しいものではないように思われる。が、しかし、また、美とは何か、だ。そして、それ以上に興味深いのが、なぜ自分がそのような行動、ルートをとるかという問題。
      (盛岡市、書家)


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