盛岡タイムス Web News 2015年  11月 18日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉300 三浦勲夫 アドレナリン


 アドレナリンはホルモンの一種で血糖値を増し、怒りや、意欲をかきたてる。最近の自分を振り返ると、アドレナリンが活発化したことが幾たびかあって、自分を褒めたいとも、逆に自制したい、とも思った。凡人であれば、どうも致し方ない。インシュリンはその逆の作用をする物質で、アドレナリンと拮抗作用を行っている、という。血糖値を下げて、心を鎮める。

  元気で、若いころは、何度も高い山に登った。高い山から、下界を見下ろすと、人間がアリのように思われた。なんと卑小な生き物か、と思った。登頂の達成感もあって、日頃味わえない心境に見舞われた。「鳥瞰(ちょうかん)図」である。山登りがおっくうになると、川に沿って歩き、たまには上流の温泉地まで長距離ハイクした。まだ夜明け前から街を歩き、月や日の出を見た。そして時の流れや、天体の運行に、崇高な敬意を払った。下界からでも、天を仰ぎ、地上社会の卑小さを確認できた。「虫観図」である。

  「智者は海を愛し、仁者は山を愛す」と言う。その領域には至らなくとも、その雰囲気を感じられる。浜辺から見ても海、空から見ても海。頂上から見ても山、麓から見ても山。年を取ると体力的に、身近な範囲を動き回る。その中で自分の幸せをつかみ取る。智者、仁者に次いで、凡人がくる。「凡人は幸せを愛す―日々これ好日」と言う人もいる。

  同僚、後輩、先輩、若者。商店、工場、建設現場で働く人たちなど、自分との関係がぎくしゃくすることがある。アドレナリンが自分を仕事に駆り立てるのはいいが、他人に立腹させることもある。次第にインシュリンが出てきて、立腹も収まってくる。夏目漱石の「ぼっちゃん」の主人公は、アドレナリンの塊、みたいだった。しかし、若気の至りも、若さ故、成長の過程として許される。老人は、立腹の落としどころを上手に見つけたい。人の弱さをついたのはパスカルで、浮気心なら男女共通である。「男心と秋の空」、「風の中の羽(女心)」、「弱き者、その名は女」(「ハムレット」の母)である。

  外国の歌の「マイ・ウェイ」も、もとはシャンソンだった。しかし、ポール・アンカや、フランク・シナトラが歌えば、アドレナリンの勝った若さから、インシュリンの勝った老年までをたどるポップとなる。ポール・アンカは、過剰なほどに力を込める。「若いころは食べきれないくらいに(仕事を)ほおばって、しまいには吐きだした」ほど、やる気満々である。しかし、来し方を振り返って、自分の生き方、マイ・ウェイを是認する。

  自分も、そろそろ身のほどを知って、自分の範囲をそれに合わせよう。文を書いているとそのような、心境になる。そうしないと、自分が、自分に反作用を返してくる。それに耐えられなければ、後退する。盛岡の町の空気はうまい。山や川が多い。郊外の空気や緑は、格別に新鮮だ。呼吸すると、胸が澄む。澄んだ胸に、澄んだ空気を吸い、明け方や夕方の、月や太陽の運行を眺めると、人間を動かす宇宙や時や自然の広大さに心打たれる。凡人は幸せを愛する、と言うが、山や川や海に近づき、天を見上げれば、智者や仁者の足元に近づける。太陽の温かさとエネルギーは、日の出が冷えた町を照らし始める瞬間、あの夜明けの曙光(しょこう)の中にもっとも端的に感じられる。
   (岩手大学名誉教授)


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