盛岡タイムス Web News 2015年  11月 19日 (木)

       

■  〈風の筆〉127 沢村澄子 「さがしものは何ですか」

 

 さて、東京浅草での個展がスタートした。しかし、わたしの作品の問題はやはり、読めないということで、それが連日話題になるが、でも、不思議なのは、なぜその書いたものが読めなくなってしまうのか、ということだ。 

  よく絵画と間違えられる。せいぜいよくて、「書からスタートしたんですか」などと言われたりして。「今も書です」「文字を書いてあります」「わたしは書家です」と答えると、「えっ?」と驚かれ、ほらここが「あ」でこれが「ゆ」です、などと指でなぞると、「ホントだ〜!」と感動してくださる方も少なくはないけれど、初見でそこに字が書いてある、その作品が書であることに気付く人はほとんどない。また、最今では時折、書いた当人にして、後でそれが読めないこともある。

  しかし、どうしてこんなことが起こるのか。

  たまに、純化、抽象化などという言葉が頭に浮かぶのだけれど、このあたりの用語解説はちょっと難しい。そこが分かっているのか分かっていないのか、それすら分からないあたりでなんとなく書くのが、わたしなのである。

  要は当人にしてよく分からない書作が続き、しかし、それはどうやら「読めない」方向へ進むきらいにあるらしいのだが、よく分からないながらも面白い?というのが、寛大なお客さまのありがたい感想である。

     
  「いろは歌」の部分。ここにいくつのハートが?  
  「いろは歌」の部分。ここにいくつのハートが?
 


  不思議なことに、猫や犬、アザラシや馬、ペンギン、ゾウ、クマ、サル、ネズミ、龍…。わたしの書いた「書」を見て、その部分部分に動物の姿を発見する人がぞろぞろ続く。そこには文字が書かれているはずなのに、「ここにペリカンが立ってる!」などと指さされることに、わたしはもう慣れっこになってしまった。

  動物派に対して、植物派も存在する。「これはバラ」「ここにチューリップ」ハス、桜、ユリなどと、具体的な植物名を挙げて指さす人もあれば、バクゼンとした森や草原のイメージを指摘する人もある。そう、「これはキュウリだ!」と言われたこともあった。自作の書がキュウリであること(「いろは歌」を書いているのに!)を理解するには、こちらにだって爆発的な想像力が要る。

  さらにそれらがエスカレートするのか、これは宇宙だという感想も頻繁で、「ここから入ってこの作品の向こう側へ行ける!」というお客さまには、ごっそりかぶとを脱いだ(これまでに3人いらした)。要は、鑑賞者(の想像力)にとって、現前しているものが何であるか、そこに何が書かれてあるかなどということは既に問題ではなく、作品というものは、見る人の奥底に日頃隠れている大事な何かをあぶりだす装置のようなものなのかもしれない。

  以前、盛岡での個展であるお客さまが指さした先にあったのはハートマーク。あそこにも、ほらここにも、とその方はわたしの作品のほうぼうに、いくつものハートを見つけてくださった。

  不思議だ。わたしは「いろは歌」を書いているのに。

  時々、わたしは鑑賞者の「さがしもの」に一緒に向き合っているような気分になる。展覧会のたび、実体のない、得体の知れないものに出会って驚きながら、そこに自分の大事を発見する人々にたくさん出会ってきた。
     (盛岡市、書家)


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