盛岡タイムス Web News 2015年  12月 21日 (月)

       

■  接収と復興 占領軍の遺恨と遺産 消えゆく「軍都」 吹き始めた冷戦の風 戦後70年 不来方の星条旗4


 本県に進駐してきた米軍は、盛岡市内の主要な建物を接収した。約20軒の有力者宅を差し押さえ、将校は本国から家族を呼び寄せて、窮乏の市民に戦勝者のライフスタイルを誇示した。それでも職業軍人意識が強い空挺部隊であったことから、市民とのあつれきが少なかったのは幸いだった。県内進駐の将兵はその後、ギリシャ内戦(1946―49年)に投入され、欧州で冷戦時代の火ぶたを切る。折からの極東軍事裁判では、盛岡ゆかりの戦争指導者の東條英機(元首相)、板垣征四郎(元陸相)に死刑判決が下り、48年12月23日執行された。 (鎌田大介)

  盛岡市史の執筆者の故・山田勲氏宅は加賀野1丁目にあり、米軍の接収を受けた。子息の盛岡市の山田公一氏(65)は、「父はビルマで民間人として英軍に抑留されて復員した。英軍のもとでは比較的、食糧事情が良かったようで、それに比べて米軍はひどいと言っていた。戦地から帰ってきて英語ができ、小泉多三郎市長のもとで通訳をしていたが、アメリカ人とよく口論になっていたらしい」と話し、終戦後も一族の苦境は続いた。

     
  正門前にクリスマスリースが飾られる県公会堂  
  正門前にクリスマスリースが飾られる県公会堂
 


  盛岡市史には、「県、市当局なんらなすことなく、ただ米軍の意のままに被接収者のために援助など一つとしてやってくれなかったのも事実である。明治維新の際、盛岡開城以上の苦しみをこれらの人々は味わったのである」と記している。

  ただし米軍は圧迫だけをもたらしたわけではなかった。公一氏は「盛岡市に道路の改善計画を、下水道を含めて衛生向上のため提出するよう命じ、アイオン台風の救援に出動した。盛岡にいた米軍はニューディール派の人が多かったという話があり、そのせいで一部の将校はギリシャに派遣され、戦死したという話も聞いた」。

  占領方針をめぐってGHQ内部で路線対立が起こり、冷戦構造の始まりに、盛岡の部隊も無縁ではいられなかった。アイオン台風救援の陣頭指揮を執ったGHQ岩手軍政部民生課長のロバート・ベントレー中尉は盛岡に赴任後、朝鮮戦争、ベトナム戦争に従軍して退役。1998年9月には旧建設省の招きで半世紀ぶりに本県を訪れ、当時を講演して、岩手の戦後復興を見届けた。

  岩手軍政部は盛岡市内丸の県公会堂を病院に接収し、45年12月25日には進駐軍主催のクリスマス祭を行い、一般市民に公開した。47年3月の接収解除まで、県民の進駐軍慰問の演芸会も開かれ、同年5月には、地方自治法に基づく最初の県議会が招集された。

  本県での陸軍大演習では昭和天皇行幸のもと大本営が置かれ、軍国時代の記憶が染みついた公会堂が連合国の手にわたり、新憲法下の議会制民主主義の洗礼を受けたことは、戦後の象徴的なできごとだった。

  接収解除後の県公会堂地下には岩手美術研究所が開設され、久しぶりに文化の風が立った。開設に立ち会った盛岡市の美術家の大宮政郎氏(85)は、「終戦直後に大通りに出たとき、進駐軍を初めて見たが、お祭りのように大勢いたのを覚えている。歩きながらブドウを食べていた。進駐軍との間にトラブルはなく、いつの間にか来ていつの間にかいなくなったと感じた」。市民は否応なしに、新しい価値観を受け入れていった。

  極東軍事裁判が決着し、陸海軍から多くの戦争指導者を輩出した軍都盛岡に、もはや米国は戦略的価値を見いだすことはなく、徐々に撤兵していった。東北地方の軍事力と、それによって持たらされるあつれきは、空軍基地となった現在の青森県三沢市に集中する。東アジア情勢が緊張するごとに、三沢をはじめ基地の存在はクローズアップされてきた。

  70年前、不来方の地に翻った星条旗は、冷戦後に変容を続ける日米安保体制のもと、いまだ大きな影を落としている。

(終わり)


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