盛岡タイムス Web News 2016年  1月 14日 (木)

       

■  〈風の筆〉129 沢村澄子 「人に入りて人をいずる」


 時折、わたしのこのデタラメな作文を褒めてくださる方がある。ありがたいことには違いないけれど、いつも胸中複雑で、素直に喜べない。

  なぜなら、「書よりずっと分かりやすい」「書をやめて文章書いたら?」「作文の方がいいよ」と、つまりは書と比べての評価であって、作文を褒められているというより書をけなされている感じが否めないからだろう。とことん意地悪な人なんか、「あんな書を書いてても仕方ないから、せいぜい作文でもして稼ぐんだな」なんて言って去ってゆく。あまりにも憎たらしい。

  子どものころからずっと思っていたが、褒められなくっていいから、けなされたくはないんじゃないか。けなされる必要はないんじゃないか、人間ってものは。しかし、けなしてるんじゃなくて率直な感想を述べたにすぎないってことなのかもしれないし、うまい下手なんていうのも、うまいものに比べたら下手、下手なものに比べたらうまい、くらいの程度のもので、わたしのやることなんて、しょせんどうでもいい次元の話だから、気にしてもしょうがない話なのである。それなのに、新年早々なぜこんなことを書いているかというと、わたしが今、さまざま猛省中だからだ。

  昨年の東京の個展で、お客さんから「うまい」ということをしきりに言われたが(それは主に書道関係者からの感想なのだけれども)、それを聞くたびイヤ〜≠ネ感じがして、どうしてイヤなのか後々ずっと考えていたら、やっぱり「うまい」なんて言われる作品はダメだからだ、と思い至った。いい作品は「いい」としか言えないものであって、「うまい」と言われるのはただそれなりのものでしかない。

  それで、反省しているのだけれど、いつの間にかわたしは、自分を否定する人たちを黙らせたいがために書をしていたようだ。「デタラメだ」「ワケが分からない」「基礎やったの?」「正当な書や篆刻(てんこく)も拝見したいものでございます」そんな言葉にストップをかけるべく、の作用がわたしの書作に含まれ、「デタラメじゃない!」「わたしはマトモだ!」「ちゃんとしてる!」そう訴えたい要素がいつの間にか作品のどこかに蓄積されてきていた。今回それに気付いて落ち込みもし、反省ということにもなり、つまんないことに人生を、大事な書を、つぶしてきたんだなと思う。

  しかし、後悔しても始まらないから、さてでは、ということになるが、好き勝手に書くことだな。書も作文も。作文はもとよりそんな感じだけど、というよりそうしか書けないのだけれど、書はやれることが多い分、余計なこともしてしまうのかもしれない。

  書の道ではよく、「法に入りて法を出る」とか「格に入って格を出る」などと言う。書道科の学生なら、必ず書法や書論の授業で繰り返し聞かされる。ところが、でも、大丈夫、誰も出なきゃならないところに入れさえしないから、くらいなところであぐらをかいて、わたしたちは早々その人生を終える。こないだ自分が成人式の晴れ着を着たと思ったら、きょうには、孫の七五三の着物を心配して。

  そしての新年、ウチにはないが、教訓カレンダーを見つけたなら書き加えたい。

  「人に入りて人をいずる」「我に入りて我をいずる」大事を成すため、全てからいずること。
(盛岡市、書家)


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