盛岡タイムス Web News 2016年  2月 26日 (金)

       

■  〈痛恨の銃声〉2・26事件80年(上) 原の盟友に凶弾 本県から政界へ 斎藤實(内大臣)、高橋是清(蔵相)


     
   事件の際、銃弾を撃ち込まれた斎藤邸の鏡台(斎藤實記念館)  
   事件の際、銃弾を撃ち込まれた斎藤邸の鏡台(斎藤實記念館)  
  今年は1936(昭和11)年の二・二六事件から80年目にあたる。事件では岩手県出身の斎藤實(内大臣)、盛岡市から衆院に議席を得た高橋是清(蔵相)が暗殺され、県民を震撼(しんかん)させた。原敬の盟友であったふたりは、国際協調と民生の安定に尽くした軍人、政治家だった。斎藤實の孫の百子さん(88)=東京都杉並区=は今も事件の衝撃を記憶し、凶弾に倒れた祖父の無念を心に秘めている。(鎌田大介)

  事件当時、陸軍は「皇道派」「統制派」の軍閥が主導権を争っていた。皇道派は政党政治のあり方に異を唱え、財閥を敵視し、天皇親政による「昭和維新」の断行を叫んだ。統制派は政官財軍一体による総力戦体制を構想し、事件後は陸軍の主流として、日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義に導く。

  派閥抗争に明け暮れながら、東京の第1師団を中心とする皇道派の青年将校たちは、満州移駐の人事や、反軍的な総選挙の結果に憤り、思想家の北一輝の影響を受けてクーデターに走った。大雪の2月26日早朝、約1400人の兵を率いて永田町、霞ケ関を制し、首相官邸や警視庁などを襲った。斎藤、高橋、陸軍の渡辺錠太郎教育総監を射殺、岡田啓介首相は辛くも難を逃れたが、政権は血塗られ、崩壊した。

  東京市四谷区の斎藤邸を歩兵第3連隊の坂井直中尉らが約150人の兵力で襲った。護衛の警官隊は、陸軍の火力に抗すべくもなく、乱入した将校たちは斎藤に47発の銃弾を浴びせた。

  百子さんは当時9歳だった。「隣の家に住んでいたので、事件そのものを目にしたわけではないが、祖父の家がとても慌ただしくなったのを見て大変なことだと分かった」と回想する。「そのときわたしは何が起きたのかは分からなかった。両親のところに、水沢から来た小遣いさんが何かを知らせに来た。その前からどうもおかしなことがあると聞いていたようだ。父は祖父を葉山の別邸に連れていけばよかったと言っていた」と話し、幼心にも不穏を感じていた。祖父の思い出を「だっこされてとても喜んでいたこと、家ではお客さんが多くて自分の時間はほとんどないように見えた」と話し、元総理、海軍提督として常に人望を集めていた。

  奥州市の斎藤實記念館の佐々木政明館長は、「斎藤實は米英の国力をよく分かっていた軍人、政治家で、日本が満州にこのまま進めば戦争になると感じていた。和平的な考えに反発する将校が多かった」と話す。

  高橋邸は赤坂区表町にあり、同連隊の中橋基明中尉ら約120人の兵力が囲んだ。就寝中の高橋は事態を察知して将校たちを一喝し、7発の銃弾と軍刀で惨殺された。

  将校たちにとって斎藤と高橋は、政界にうごめく「君側(くんそく)の奸」だったが、昭和天皇には最も信頼すべき「股肱(ここう)の臣」だった。事件の報に天皇は激怒し、右往左往する軍首脳を叱りつけ、みずから陣頭に立って乱を鎮定すると宣告。これでクーデターは水泡に帰し、錦旗を奉じるはずの将校たちは朝敵となった。

  海軍は陸戦隊が出動し、艦砲射撃の構えを見せ、陸軍の主力は戦車で決起部隊を包囲。戒厳令が敷かれ、帰順命令により兵士たちは脱落し、将校はある者は自決、多くは囚われ刑死した。

  岩手県から政界に進出した斎藤と高橋は、盟友の原との宿命のようにテロに倒れた。昭和維新の銃声は、平民宰相が生んだデモクラシーの挽歌となった。



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