盛岡タイムス Web News 2016年  8月 13日 (土)

       

■ 東京外語大から昨年 71年越しに卒業証書 在学中に召集、暗号班配属 戦後は米軍関連で仕事 人生決めた語学力 高橋稔さん(96)雫石町


     
  自身の記憶を語ってくれた高橋稔さん=雫石町の自宅で  
  自身の記憶を語ってくれた高橋稔さん=雫石町の自宅で
 

 15日に終戦から71年を迎える。雫石町下町の高橋稔さん(96)は2015年10月31日、東京外国語大学から71年越しの卒業証書を授与された。同大が行った44(昭和19)年〜46(昭和21)年の卒業生を対象にした調査で、卒業前の入隊や戦後の混乱で卒業証書を受け取れなかった12人に授与。卒業生の家族の他、フランス科を卒業した高橋さんら3人が直接受け取った。戦後の混乱期、青森県の米国三沢基地などで日米の懸け橋として活躍した高橋さんが当時を振り返った。

  高橋さんは43年、第2次世界大戦終盤の日本の戦況激変に伴い、学生のまま戦地に召集。堪能な語学力を見込まれ、盛岡の部隊を経て派遣軍本部参謀部暗号班に配属された。

  終戦後の46年4月1日に除隊。県内の米軍軍政部に勤務し、米軍三沢基地を建設するため作られた三沢特別建設事務所で通訳や翻訳の仕事に就いた。81年に定年で同町に戻り、これまでに町内の子ども約250人に英語を教えた。

  高橋さんに学徒動員の召集令状(赤紙)を渡したのは、旧雫石町長で実父の精造さんだった。当時は町長などが赤紙を渡していた。町長の役目とはいえ、実の息子に赤紙を渡す胸中は幾ばくだったのか。高橋さんは多くを語らなかったが、複雑な表情を浮かべた。

  高橋さんが受け取った卒業証書からは、戦時下だった日本を察することができる。44年9月22日付の卒業証書は、学校名が「東京外国語大学」ではなく「東京外事専門学校」。英語など敵国を連想させる言葉が禁止だった当時をしのばせる。

  高橋さんは「この時代だけ校名を変更していた。『外国語』という言葉が使えなかったのだろう」と語る。外国語を学ぶ志を持った若者が、外国語という言葉さえ使えなかった戦争の理不尽をうかがわせる。

  高橋さんの日米交流は、除隊後の三沢基地から始まった。生け花の家元で妻の郭子さんが、生け花や茶道などを米軍将校の奥さんに教え交流。じかに触れる日本文化に相手は興味津々だったという。

  高橋さんは「当時は将校が家政婦のような立場で雇うことが多かった。(妻が教えた生け花は)古流の一つで、日本では絶えていると思う。だが、教わった人が米国で伝えているのかもしれない」と思いをめぐらせた。

  高橋さんに在学時に志したフランス語を勉強し直したいか問うと「未練はない」とさっぱりした様子。「今は詩吟を楽しんでいる。大病も患い、11月で97歳になる。生きている間に、自分が知っていることを伝えられればと思う」と話した。
     (戸塚航祐) 
 


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