盛岡タイムス Web News 2016年  8月 15日 (月)

       

■ 田中本ブーム 「角さん」かく戦えり 盛岡騎兵第3旅団第24連隊 一兵卒から出馬、総理へ 日中結び米機に墜つ ロ事件40年

     
  騎兵第3旅団があった盛岡市青山2丁目の盛岡ふれあい覆馬場プラザ  
  騎兵第3旅団があった盛岡市青山2丁目の盛岡ふれあい覆馬場プラザ
 


  田中角栄がブームだ。今年はロッキード事件から40年を迎え、作家、石原慎太郎氏による評伝がベストセラーに。のち「闇将軍」と呼ばれた宰相は、日中戦争中の1938(昭和13)年、盛岡の部隊から陸軍の一兵卒として振り出した。新潟県の農家に生まれ、軍から実業界へ、政界へ、刑事被告人として法廷へ、それでも政界へ。歴史上の評価は、いまだ定まらない。岩手から見た「角さん」。かく戦えり。(鎌田大介)

 ■ノモンハン事件
  角栄は1918(大正7)年生まれ。38年、新潟県柏崎での徴兵検査で甲種合格。暮れに盛岡騎兵第3旅団第24連隊に入隊を命じられ、39(昭和14)年3月に広島から満州に渡り、黒竜江省富錦に駐留、ソ満国境地帯を守備した。

  2年に及ぶ駐留中にノモンハン事件があった。自叙伝「わたしの履歴書」には「第24連隊からも、古兵の半分以上が動員されたが、出動3、4日後には戦死の公報がどんどんとはいり、戦争の激しさが身にしみて理解できた」と書かれている。

  ノモンハン事件は39年5月から9月まで、満蒙国境で起きた日ソ両軍の紛争。関東軍は陸上で大苦戦に陥ったが、航空戦では圧勝したため、辛うじて引き分けた。両軍とも膨大な死傷者を出し、ドイツなど他の列強の動きに互いの思惑が一致し、停戦した。

  盛岡市の元市議会議員の千葉正氏は、全国市議会議長会会長に就任した85年に東京目白の田中邸にあいさつに詣でた。その際、兵役時代が話題になった。

  「兵隊のころ盛岡の人に大変、世話になったと言っていた。盛岡は人柄の良いところで、岩手は日本一の馬産地だったと。田中さんは馬を扱う人だし、岩手県からは多くの馬が戦地に行って、ほとんど帰らなかった。その悲しみの思いがあるようだった」と話す。

  角栄は戦闘の後方にいて、強大化したソ連軍の実力や、常に悩まされた中国人のゲリラ戦を前に、軍事に対してはリアリストになった。40年に傷病兵として帰国後、建設会社を起こして軍需で財を成し、終戦直後から政界進出をうかがった。

     
   
   1974年6月29日、参院選で盛岡市を訪れ、県庁前で演説する角栄。陣笠の小沢一郎氏を伴い、増田寛也氏の父の増田盛参院議員を応援した(本紙撮影)
 


  ■日中国交正常化と戦後補償
  満州での角栄はソ連、中国の脅威を痛感したが、民間人となり、太平洋戦争中に米国の圧倒的な力を前にしての危機感は逃れた。

  内地が大空襲や原爆で焦土と化す前に朝鮮半島に渡り、終戦後、帰国した。このためか戦後も米国に対する畏怖は少なく、のちの外交観を左右した。

  政治家として再軍備や改憲に対して特別な執念は示さず、日米安保下での軽武装と経済成長路線を唱えた。

  角栄の最大の政治的遺産である72年の日中国交正常化は、冷戦下の国際秩序を揺り動かした。日中戦争に賠償しない代わり台湾を切り捨て、北京に国際舞台を与えた。米国を出し抜いた外交がホワイトハウスの不信を招き、のちにロッキード事件での失脚を招いたという見方がある。

  盛岡市の元農林水産大臣・防衛庁長官の玉沢徳一郎氏は、自民党で派閥的に対立する場面が多かっただけに、政治家としては賛否の複眼で角栄を見る。

  玉沢氏は大正の原敬と、昭和の角栄の中国外交を比べ、「そのときの中国情勢から考えて、国際協調のため原敬の取った態度は戦略的だった。田中さんは時流に乗じてやろうということで、日本の国益を退けても中国と結びつけば良いと考えていた節がある。そこに国家運営の理念が感じられなかった。パンダのバッジを付けるような政治家が多くなったことに落胆した」と話す。交渉相手の毛沢東、周恩来の老獪(ろうかい)は、「今太閤」の上を行った。

  「われわれは首尾一貫して台湾の友なので反対だったが、田中さんや竹下さんは、中国に将来の賠償を要求されないため経済援助をした方が良いと、必要以上な利権をやり、つながりのある企業に仕事をさせた面がある。そのために足下を見られたのではないか」と批判する。現在に至る戦争責任や歴史認識問題の遠因になった。

  「日本列島改造論」については、「今も同じで、地方が栄えないで国が栄えるのかと『地方創生』をやっているが、地元で物を考えてこいというなら今、田中さんが生きていればどんな発想をしただろうか。そこは評価して良いのではないか」と話している。

  ■闇将軍とその晩年
  角栄はロッキード事件で失脚後も、本県選出の鈴木善幸総理ら歴代内閣に隠然たる影響力を保ったが、創政会発足による自派の分裂などで病に倒れた。

  娘の真紀子氏が議席を得た93年、愛弟子だった小沢一郎氏による自民党分裂と細川内閣への政権交代を見届け、世を去った。


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