盛岡タイムス Web News 2016年  9月  24日 (土)

       

■ 〈体感思観〉 誇れる老いを目指して 飯森歩


 「老い」は誰にも訪れる。敬老の日にあたり、福祉施設の取材をしていて改めてそのことを考えた。誰しも必ず、他人の手を借りねば暮らしを維持できない日を迎える。自分の意志に反して身体が動かなくなり、体力が衰え、食事や洗濯、買い物、運転などを思うようにこなせなくなる。その未来を想像し、これまでは漠然とした不安におびえるだけだった。自分の身体が自分の意志通りに動かないとは、どれほどつらく苦痛なことかと。

  私には89歳の祖母がいる。腰は60度曲がっているが歩けるし、食事もトイレも一人でこなせる。認知症の気もなく、めっぽう明るい。ただ少しずつ、日々の記憶があいまいになる場面が増え、元来の気性も手伝って頑固さが増している。「そんなこと言ってない」「何でも私のせいにして」など、こちらがうそをついているかのような発言も多くなった。普段は流せても、こちらも人間。気持ちに余裕がなく、言い返して自己嫌悪に陥るなどしょっちゅうだ。数年前、腹の虫の居所が悪い時「歩ちゃんはうそつきだ」と言われ、未熟な私はうそと言われた案件について、祖母がいつどこでどんな発言をしたかを、延々説明した。無実の罪を晴らそうと必死に祖母を説き伏せた私は、本当に大人げない。今も時々思い出し、後悔で頭を抱える(おそらく祖母は覚えていない)。

  年を取るとは、たぶんこういうことなのだ。体力や思考力の変化が、周りを戸惑わせる。高齢者に限ったことではない。きっと私も10、20年後は、今と同じではないだろう。

  しかし、体力や記憶力などが失われていく一方で、得ているものは必ずある。例えば経験と熟考。若さや勢いで獲得していたのを、それによって得られるようになる。きっと経験や知恵の蓄積から、頭の使いどころや「手段」が変わるだけで、獲得・実現できる事柄は今も昔も、これからも変わらない、のではないだろうか。

  加えて、さまざまな世代が存在する社会でそれぞれが能力を発揮し、支え合うのが「共存」だ。若者に活力や新鮮さがあるならば、堅実に年を重ねた人には豊かな見識、寛容さ、指導力、安定感が備わっている。実際、祖母の懐の深さに助けられていることは多い。視点を変えれば、老いは衰退ではなく成長なのだ。

  外的な衰え以上に内面的な豊かさを育めるよう、これからどう生き抜くかを真剣に考えたい。老いることを誇りにできるよう数十年後の自分を想像し、いま何をすべきかを黙々と考えたいと思うこのごろだ。
 


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