盛岡タイムス Web News 2016年  11月  24日 (木)

       

■  〈活字とジャズとコミックと〉7 井上忠晴 うたかたの日々


 「うたかたの日々」は20世紀中葉に活動したフランス人作家ボリス・ヴィアンの代表作。初めて日本語に翻訳されて以来、出版が途切れたことはないのではないか。ヴィアンの描く不思議な世界は、映像化も試みられ、本国フランスでは1968年、日本でも利重剛(りじゅう・ごう)監督が「クロエ」のタイトルで2001年映画化。さらに最近もフランス映画が「ムード・インディゴ うたかたの日々」の邦題で13年、公開されている。この小説の映像化は、奇抜な(想像力豊かな)発想でヴィアンが生み出したピアノカクテル(鍵盤に酒が仕込まれ、演奏によってカクテルが作られる)などがどう具現化されたのかも見所だろう。岡崎京子によりコミック化もされている。

  光文社文庫の年譜によると、ヴィアンは1920年、パリ郊外ヴィル・ダヴレーで裕福な家庭に生まれた。しかし世界恐慌のあおりで財産を失ったという。その後は省略するが、作家、詩人、画家、俳優、ジャズ・トランペッターなど文化芸術でマルチな活動をしていたことで知られる。10代の頃に関節リュウマチを患い心臓が悪く39歳で59年に亡くなった。

  日本では70年、逐語訳「日々の泡」のタイトルで曽根元吉の翻訳が新潮社から発刊され、79年に伊東守男訳により「うたかたの日々」のタイトルで早川書房が出し、2011年に野崎歓の訳により同名で光文社から出ている。

  物語は同時代の青春恋愛小説で、ヴィアンならではのジャズとSFファンタジーが吹き込まれた作品。主人公のパリで暮らす22歳のコランは裕福で仕事をしなくても生活できる(まるでヴィアンの父親の)ような境遇。物語ではコランが働かなければならなくなるのだが、そこもヴィアン家のたどった不遇と重なるような気もする。

  コランは、美しいクロエを見初め、願い通り結婚。しかし、すぐにクロエは肺の中に睡蓮が生える奇病に冒される。クロエの病を治そうと、献身的に寄り添い、不自由しなかった資産も底をつき、これまた不思議な仕事を見つけては収入を得る暮らしを続ける。コランの思いはかなうのか、ここで言及するのは無粋だろう。

  クロエという女性の名に、すぐに反応した方もいるに違いない。「クロエ」はデューク・エリントン楽団が演奏した曲のタイトルと同名だから。もともとはニール・モレット作曲(作詞はガス・カーン)の27年の曲で「Chloe(song of the Swamp)」が正式タイトル。物語では、エリントンの演奏と彼女の両方で使われる。

  曲名としては例えば、コランが雇っている料理人のニコラとの会話で「ムードの出るテンポの曲がいいですね、デューク・エリントンが編曲した『クロエ』か、『ジョニー・ホッジスのためのコンチェルト』のようなスタイルの曲です。大西洋の向こうでムーディーとか、サルトリー・チェーン(官能的な曲)とか呼ばれているような曲です」とある。

  肝心のクロエとの会話でもコランは「あなたを編曲したのはデューク・エリントンですか?」と尋ねた後で自分のばかさ加減に逃げ出した。

  結婚式でも、愛の誓いの際に、「よく知られた曲」(クロエ)をエリントン編曲のバージョンで演奏するよう依頼。コランは1人と1曲のクロエに心酔しきっていた。

  このクロエを実際のエリントンの演奏で聴くとすれば、40年にビクター(米)に残した録音。名の知れた楽団となっていたエリントン楽団の中でも、40年代初期は評価の高い時期。ピアニストのビリー・ストレイホーン、テナーサックスのベン・ウェブスターらが加わり、生粋のエリトニアンら名手の顔ぶれに厚みを増した。

  光文社古典新釈文庫の注釈で説明されている通り、ヴィアンは「クロエ」の編曲はエリントンと誤解しているが、ストレイホーンによるのが事実。ヴィアンは実際にこの演奏を大絶賛しているのだが、音楽批評家でもあるヴィアンが間違えてしまうのは、30年代末期以降のエリントンの音楽にストレイホーンが溶け込んでいたことの裏返しではなかろうか。ジャズ批評家の中では、クレジットはエリントンでもストレイホーンが編曲した曲がたくさんあるというのが通説化されている。

  40年10月28日、シカゴで録音された演奏はトロンボーンのサム・ナントンの話しながら吹いている「トーキング・ソロ」で始まり、エキゾチックさと幻想さを備えた曲想。当時はそう多くなかったと思うが、管楽が止むブレーク部分でジミー・ブラントンのベース・ソロがつま弾かれる構成も魅力的。ウェブスターのソロもアレンジの中で輝いている。ニューヨークのナイトクラブのコットンクラブ出演の頃のジャングル・スタイルを醸しているので編曲者の誤解を生じてもしかたがないかなと納得する。

  ホッジスは楽団の花形ソロイストの1人で、アルトサックスの達人。物語のコンチェルトは架空の曲なので、ここはホッジスの持ち味の1つである甘い演奏を同じ年の録音から。10月17日にシカゴで録られた「Warm Valley」はムーディーで官能的なスローバラード。以後、このスタイルのホッジスに魅了された人は数知れず…でしょう。

  最後に、物語には哲学者サルトルをモチーフとした学者バルトルの名前が出てくることに触れておこう。サルトルは音楽家との交遊があった。彼の小説「嘔吐(おうと)」にはカフェでジャズの「Some of these days」のレコードを聴く場面が出てくる。

  【底本】「うたかたの日々」ボリス・ヴィアン、野崎歓訳(光文社古典新訳文庫)

  【関連図書】「うたかたの日々」伊東守男訳(ハヤカワ文庫)

  曽根の「日々の泡」は未読のため、伊東訳が最初の出会い。コランとクロエの新居の部屋は、睡蓮が生える奇っ怪な病の発症と時同じくして空間が伸縮する。実際にあり得ない話だが、その空間がゴムまりの内部のように形を変える描写などから「うたかたの日々」という意訳は秀逸と感じ入る。原書を読めないが、ヴィアンの世界が伝わる翻訳だと思う。野崎の翻訳は今の時代に合った読みやすさがあり、どちらも手放せない。ハヤカワ文庫は注釈の充実、作者年譜がありがたい。

  【関連音楽】

  The Legacy of BLUEBIRD DUKE ELLINGTON 1940-1942(BMG Victor)

  この時代は元がアルバム形式ではないので、今は後年の編集盤で聴くことになる。いろいろな形で出るが、僕の手元にあるのはこのCD3枚組。物語のクロエの演奏、ホッジスの紹介バラードが聴ける。


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