盛岡タイムス Web News 2017年  2月  2日 (木)

       

■  今に生きる巽聖歌〈上〉 古里と終えん地の足跡 日野市郷土資料館で顕彰(山下浩平)


     
   40歳前後の巽聖歌。たきびを作詞した頃とみられる(日野市郷土資料館提供)  
   40歳前後の巽聖歌。たきびを作詞した頃とみられる(日野市郷土資料館提供)
 

 童謡「たきび」などで知られる童謡作家で紫波町名誉町民の巽聖歌(1905―73)の古里の紫波町と、戦後の文学活動の拠点として25年を過ごした東京都日野市が姉妹都市の盟約を結んだ。住民レベルで行われてきた顕彰活動の盛り上がりの成果で、今後の両市町の観光など施策連携や交流事業に期待がかかる。これを受けて本紙では、聖歌の童謡や文学活動における功績、日野市の概要、両市町の住民により長年行われてきた顕彰活動について紹介する。=全3回(山下浩平)

  ■童謡作家として

  1905年、旧日詰町(現、紫波町日詰)に巽聖歌(本名・野村七蔵)は生まれた。幼い頃に出合った童謡雑誌「赤い鳥」の影響で、詩の創作を始める。17歳で同雑誌に初入選し、その3年後には、水田のオタマジャクシの様子などを描いた「水口」が、赤い鳥の選者だった北原白秋から「おっとりしていていい気品のある芸術童謡」などと高い評価を受け、北原に師事し、童謡作家として名を残す第一歩となった。

  これらの作品をはじめ、多くの詩を創作している。中でも、代表作「たきび」が生まれたのは、東京都中野区に住んでいた頃。上高田地区の風景をモチーフとしている一方で「北風ピープー」といった擬音は北国育ちならではといわれる。詩のリズミカルさも相まって、現在でも多くの人に親しまれている。

  ■児童文学者として

  聖歌は48年、戦時に疎開していた旧沼宮内町(現、岩手町沼宮内)から日野町東大助(現、日野市旭が丘)に、八王子に住んでいた短歌の弟子からの紹介により一家で移住。その後の文学活動の拠点となる。盛岡市での活動の展開も考えていたが、同年に盛岡での活動拠点となり得た岩手児童文化協会の事務所が火災で焼失しており、そのことも移住のきっかけの一つとなったようだ。

  日野市郷土資料館で聖歌の調査に携わっている北村澄江さんによると、聖歌が日野の地で残した功績は▽少年文学者・新美南吉の顕彰(全集出版)▽児童詩の確立▽学校教師の指導│の大きく3点。詩や童謡だけでなく、編集や教育分野においても功績を残していている。これらは第2回で詳しく取り上げる。

  ■名誉町民・巽聖歌

  73年、日野市立病院で亡くなった聖歌。同年に同町で「巽聖歌先生を偲(しの)ぶ会」が開かれたほか、日本童話会や日本作文の会、日本児童文学者協会などが雑誌や機関誌などで追悼特集を組んだ。78年、名誉町民へ推挙された。

  翌年には紫波町桜町の紫波総合運動公園内に「水口」の詩碑が建立された。日野市では98年に聖歌が住んでいた家が取り壊されることとなり、地域住民による聖歌の顕彰団体「たきび会」が、99年に旭が丘中央公園に「たきび」の詩碑を建立している。

     
  日野市の高幡不動にある土方歳三像  
  日野市の高幡不動にある土方歳三像
 


  ■終えんの地・日野

  日野市は1963年に市制施行し、今年で54年目。面積は紫波町の約9分の1の27・55平方`bで、人口は約5倍の18万3589人(1月1日現在)。江戸時代には「多摩の米蔵」といわれ農業が盛んだったが、企業誘致により都市化も進み、現在の主要産業は工業。一方でナシやブドウ、リンゴなど農産物生産も活発に行われ、紫波町との共通点もある。

  歴史をたどると、新撰組の副長・土方歳三(1835―69)や6番隊隊長・井上源三郎(1829―68)の出身地。また、新撰組の活動を支えた佐藤彦五郎(1827―1902)の屋敷(日野宿本陣)もあり、新撰組の基礎が築かれた。同市の高幡不動尊には土方の銅像があるほか、「新撰組のふるさと」として、毎年5月の「ひの新撰組まつり」など顕彰事業が盛んに展開されている。

  紫波ではワインや日本酒、日野では地ビールが特産品となるほか、歴史文化の豊かさの面など共通点は少なくない。一方で、紫波におけるワインの原料生産から販売までの一貫した取り組み、日野における歴史文化の観光資源としての活用法など、相互に連携、協力できる部分も多く、盟約を通した産業発展も期待できる。


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