盛岡タイムス Web News 2017年  2月  6日 (月)

       

■  南北の「渋民」に人あり 盛岡市の啄木記念館 一関市の芦東山(儒学者)を展示 先人の縁で企画展 4月16日まで


     
  啄木と芦東山を展示した「北の渋民、南の渋民」展  
 
啄木と芦東山を展示した「北の渋民、南の渋民」展
 

 盛岡市と一関市にある「渋民」の先人にちなむ企画展が、盛岡市渋民の石川啄木記念館で開かれている。盛岡市の歌人の啄木(1886―1912)、一関市の儒学者の芦東山(1696―1776)の記念館が連携し、「北の渋民、南の渋民」と題して、紹介しあっている。おのおの先人を生んだ同名の風土に、来館者は深い関心を寄せる。4月16日まで。

  芦東山は江戸中期の仙台藩の儒学者、刑法学者。一関市と合併前の大東町渋民の生地に1982年、記念館ができた。

  封建時代すでに「刑罰の無い世」を構想し、懲罰より教育を重んじる「無刑録」を著した。当時は革新的で理解されなかったが、維新後、明治政府が改めて着目し、刑法制定の上で参考にした。盛岡市の歴史学者の森嘉兵衛は、「東北に世界的な文化として何があるかと問われたなら、私は何の躊躇もなく、平泉文化と芦東山の思想と答える」と、近代的な普遍性を評価した。

  片や儒学、片や文学を通じて偉大な思想を残し、後世に大きな影響を与えた先人を比較、紹介しようと連携して企画展を開いた。昨年6月には一関市で、今年は盛岡市で開催した。

  啄木記念館の展示では、幼いころから学問に秀でていたこと、生涯にわたり日記を書き続けたこと、ともに後世に名を高めたことなど、時代を隔てながら、先覚者として通じ合う点を比較した。「無刑録」の複製などを見ることができる。

  ふたつの渋民の地名の由来については諸説あり、盛岡市渋民は「鉄さびの出る湿地」の意味から出たとも言われる。一関市渋民は仙台藩時代、大原代官所の配下にあり、明治の町村制実施に伴い芦東山生誕の地名を取って、渋民村と名乗った。

  啄木が生きていた明治には、岩手県内に渋民村が2村あった。ただし、啄木がもう一方の渋民を訪れたという記録はない。

  芦東山記念館職員の小味浩之さんは「ふたつの渋民の間に歴史的なつながりはないが、どちらもの地名もアイヌ語に由来すると思われ、同じ漢字を当てたのではないか。昨年は当館の展示に啄木記念館に協力してもらい、今年は啄木記念館の展示に当館が協力した」と話す。

  啄木記念館の森義真館長は「一関の渋民は、岩手山や姫神山が見えるこちらの渋民とは違う山間の風土に見えるが、どちらもアイヌ語の『スプ・タ・アン・ムィ』(渦流、そこにある淵)から来ていると思われ、県内には他にも渋民と名のつく地名がある」と話し、人物を生んだ風土の縁を語る。(月曜日休館)
 


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