盛岡タイムス Web News   2017年 10月  13日 (金)

       

■  徳丹城発掘調査半世紀 矢巾町教委が中間報告会 元職員の西野さん解説


     
   これまでの発掘の経過や調査で分かったことを説明する西野さん(左)  
   これまでの発掘の経過や調査で分かったことを説明する西野さん(左)
 

 矢巾町の国指定史跡・徳丹城の発掘調査総括報告書作成事業に係る中間報告会「徳丹城は、今」(町教委主催)は8日、同町南矢幅の町公民館で行われた。町民ら約60人が集まった。史跡位置の確定、国指定から半世紀となる2019年に向けて町教委が町の公式見解となる報告書を制作中。同報告会では、木製冑(かぶと)や「別将」銘墨書土器などの出土品とその意義を改めて確認し、今後の史跡整備に向け町民の意識高揚が図られた。

  元町職員で約30年、発掘調査を担当した町歴史民俗資料館の西野修さん(60)が、総括報告書の位置付け、これまでの調査経過などを説明。町社会教育課の花立政広文化財係長が、今後の整備の見通しを話した。

  史跡位置が1966年に現在の西徳田に確定するまでは、江戸時代の水戸藩「大日本史」による徳田説に始まり、現在の同町北郡山や東徳田17説が提唱された。確定時は36年に菅野義之助さんが提唱した西徳田説が認められる形となったが、西野さんによると、1905年の明治期に同町出身の高橋常八(白命)さんにより、既に現在の場所が提唱されていたという。

  また、徳丹城を建てた文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、生前に2度、官位を与えられていることも紹介。徳丹城が造営されたとされる時期に重なることなどを説明した。

  西野さんは「今後は高橋白命さんに対しても光を当てていかなければならない。綿麻呂の破格の待遇を考えた時、天武天皇の血筋を引く高貴な人物であったことも影響しているかもしれない」などと解説していた。

  同町和味の吉田利一さん(75)は「木製冑が発見された経緯を聞き、改めてかなり古く、重要なものと感じた。地域住民、町民として関心を持ち、大切にしていかなければと思った」と話していた。


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