盛岡タイムス Web News   2018年  1月  16日 (火)

       

■  われ道化だじゃい@没後70太宰と岩手 明治と昭和への「惜別」 太宰治と石川啄木 級友の小林茂雄 魯迅を仲立ちふたり結ぶ


 今年は太宰治(1909―1948)の没後70年。青森県出身の太宰は啄木に感化され、盛岡出身の作家の石上玄一郎と青春に交わり、花巻出身の詩人の三田循司と師弟関係にあった。連載で岩手との縁をたぐる。題して「われ道化だじゃい」。(鎌田大介)=毎月1回連載します。

       
  盛岡市大通にある石川啄木の銅像 青森県五所川原市にある太宰治の銅像  
  盛岡市大通にある石川啄木の銅像 青森県五所川原市にある太宰治の銅像  


 まず太宰と啄木の関係から。二人の生涯は、明治末のわずか4年の重なり。啄木が26歳で東京に没した1912(明治45)年に、太宰は4歳で青森県金木村におり、互いに認識はない。文学史の系譜においては断絶しているが、二人を結ぶ黒子がいる。盛中時代からの啄木の親友、小林茂雄(1886―1952)。中国文学者の魯迅の級友でもある。

  太宰後期の中編「惜別」は、小林の手記をもとに書かれた可能性がある。太宰は作品中1カ所だけ、城下町盛岡に親近を示しており、啄木を脳裏にペンを運んだのであろう。ただしこの作品は仙台時代の魯迅が主人公で、小林と留学生魯迅との関係をひもとかねばならない。二人は1904(明治37)年から仙台医専に机を並べた。

  尾崎秀樹著「魯迅との対話」には「太宰治の『惜別』は何度もいうように、東北地方の某村に開業している一老医師の手記の形式をとっている。老医師は地方新聞のインタビューの記事が気にくわない。改めて自分の手で手記をまとめておこうと思い立つ。その冒頭の部分は魯迅の級友小林茂雄の手記からヒントを得たらしい」と記されている。

  太宰が小林の手記を見たとすれば、それはいつのことか。太宰は魯迅の事績を調べるため44(昭和19)年12月20日から、仙台市に河北新報社を訪れ4日間、仙台医専の関係者を訪ねている。その際、小林の恩師であった加藤豊治郎を取材し、魯迅にまつわる小林のメモを見せられた―との説がある。

  啄木記念館長の森義真氏著「啄木の親友小林茂雄」から引用する。

  「4日間の取材の中で、そうした着想を得る証言や資料を入手したのではないか。その資料とは、茂雄の手記もしくはメモであったのではないか。その証言は、茂雄の『メモ魔』を太宰に認識させるものであったのではないか。こうした仮説を抱いている」。

  太宰ファンはおおむね「惜別」を凡作とみなす。太平洋戦争中の国策に沿って執筆された経緯があり、時局に便乗したとの失望を交え、批評対象になることは少ない。仙台医専の記憶は遠く、魯迅や小林に関してもはや確証は得られず、「惜別」の成立を詳細に研究するのは難しい。

  しかしこの作品は極めて重要である。創作にあたり太宰は、初めて近代史と国家に正面から向き合った。「惜別」には、清末の学徒魯迅の悲憤を借り、亡国の予感が秘められている。それは支配階層と反体制という相反の履歴を背負った太宰の、政治的な業(ごう)のなせるわざだった。

  太宰には立憲政友会の議員の名家に生まれながら学生運動に身を投じ、同志を裏切った負い目がある。その蹉跌(さてつ)を作品化する上で、政治と文学の亀裂にさいなまれつつ早世した啄木の生涯は、歳を経るにつれ、消えぬ憧憬(しょうけい)となったはずだ。

  終戦前の敗色の世相下、ある意味で明治に殉じた歌人のひそみにならい、昭和という時代への惜別の誘惑が太宰にもたげても不思議ではない。いわゆる報国の文学ではあったが、出版は敗戦直後。3年後、太宰死す。

  森氏は啄木と太宰について、「啄木は渋民、太宰は金木で、北東北のそれぞれの地方の中心都市の近郊に生まれ、啄木は盛岡中学、太宰は青森中学で文学に目覚め、身を立てようとした。啄木は晩年、太宰は若い頃に左翼思想に共感し、東京で挫折した。啄木は渋民、太宰は津軽を思い続ける望郷の文学を残したことは共通している。最も違う点は、啄木は経済的に裕福でない家のひとりの男子として大切にされ、太宰は富豪の家の六男、津軽の言葉でオズカスとして育てられたこと」と話す。二人の文芸批評上、示唆に富む。

  この他、太宰は「ヴィヨンの妻」で「石川啄木という大天才」と、「津軽」で「東海の小島」の歌を引き、オマージュとしている。


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