盛岡タイムス Web News   2018年   4月  22日 (日)

       

■ 盛岡の石上玄一郎と太宰 分かつ青春の原罪 弘前高校からライバル 南部と津軽の苦い友情

     
   
   太宰の千葉県船橋時代に石上と交わった。(船橋市の九重橋の太宰治のレリーフに、石上の写真)  


 太宰治のライバルに盛岡市出身の作家、石上玄一郎(1910−2009)がいる。弘前高校時代から文才を競い、ともに左翼に傾倒し、上京し挫折した。闘争に刻む青春の原罪を分かち合ったふたり。「情念の太宰」は死して文学に生命を得て、「観念の石上」は生きて思想の冥府に筆を運んだ。(鎌田大介)=毎月1回連載します。

 石上の本名は上田重彦。二人は弘前高校進学の1927(昭和2)に出会った。既に盛岡中学でマルキシズムの洗礼を受けた石上とブルジョアの太宰。
  さらに南部と津軽で、馬が合うはずないが、同人誌時代は互いの作品に内心、舌を巻いていた。

  盛岡藩の没落士族の子弟として苦学する石上にとり、青森県政財界の名門を誇りながら、作品には旧家の桎梏(しっこく)を持ち出し、受難を装う太宰がいらだたしい。

  太宰は理知に走りすぎる石上を煙たがり、「あいつと話していると日本人みたいな気がしない」と陰口をたたき、張り合ってロシア文学に没頭した。

  左翼的には石上の方が理論家として人望を集め、太宰にコンプレックスを与えた。同窓に元盛岡市議の小野隆祥氏がいた。

  弘前高校で在学中に、横領が発覚し、校長排斥のストが起きる。石上は弘前署の内偵によりコミンテルン直系とにらまれ検挙、放校。プロの活動家を目指し、のち当局の拷問にまで遭う。太宰は東大に進み学生運動に手を染める。石上は闘士としての太宰を信用せず、共に戦線を張ることはなかった。

  やはり自堕落な太宰は非合法活動に耐えられず、脱落する。石上は内部抗争での同志の惨死を目にして、イデオロギーの独善と暴力に左右の別なしと絶望し、組織を離脱する。

  35(昭和10)年までに運動は壊滅状態、プロレタリア文学は退潮。そんな時代に石上と太宰は文学に回帰した。そりの合わぬ二人も修羅の季節をくぐり、政治には達観していた。

  その年、原敬の子息の原奎一郎宅の合評会に、石上が太宰を誘った。太宰は「逆行」が文藝に載り有頂天。自分の盛岡人脈を見せつける狙いはあったが、文士的に太宰の交際を広げてやろうと、石上なりの友情があった。

  ところが太宰は初対面の原に毒づき、沢内村出身の作家の古澤元と論争したり、石上を閉口させるばかり。

  生活に追われる石上をある日、太宰が訪ねた。初出版の「晩年」を自慢げに渡したあと、「友達がけがして病院代がいる」と偽り、石上から20円を借りて踏み倒した。富豪の息子が貧しい自分の金をむしりとる。金額より、石上はその甘ったれが許せない。

  のち太宰が中毒の薬物代ほしさに半狂乱だったと知る。自業自得で同情の余地なし。さすがに太宰も気がとがめ、数年後に知人を介して返済し、めそめそわびを入れてきた。40(昭和15)年の石上の処女作「絵姿」出版の祝賀会に太宰が出席してひとまず手打ち、その後は疎遠になった。

     
  石上の回想記「太宰治と私」(集英社)  
   石上の回想記「太宰治と私」(集英社)  



  太平洋戦争始まる。太宰は中堅作家となり、石上は再び政治の春秋を迎えた。上海に設立された中日文化協会の招請で大陸に渡り、国策的な情報工作に携わったとみられる。石上はその間を歴史の闇に封印した。やがて終戦、46(昭和21)年復員。権力のもと左右の転向を体験した思惟のうめきを秘めつつ、静かにペンを取り直した。

  太宰は流行作家の声望を得て、「斜陽」はベストセラー。石上は、太宰といつか文学の決着を付けねばならなかった。しかしその頃の太宰の視野に石上はなく、文壇の生き神として君臨していた志賀直哉とその一派に悪罵の限りを尽くし、戦後の世相を呪い、48(昭和23)年、破滅した。


  石上の追悼文は「旧友の死 狂い咲きの美」。51(昭和26)年、太宰の死に向き合い「自殺案内者」を著。

  その後は学識、論壇で活躍。喜寿を前に86(昭和61)年、「太宰治と私」を刊行し、表紙を自筆の絵で飾った。澄ましたワイングラスの傍らに、桜桃がゴロリ。悪友ふたりの戯画だった。


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