戦時下の盛岡中学   連載後日談    
昭和18年流産事件の真相(下)

■麦角をめぐる雑記

 1、「笹の実流産事件」のあらまし

  昭和18年に、岩手県外山牧場・長坂部落周辺で笹(ささ)の実が特異に結実・豊産となった。このことが問題の発端だった。

  この笹は、葉がチマキ(粽)用に適するというチマキザサの一種オオバザサで、俗にいうクマザサに含まれる種類である。

  当時は食糧不足時代のこと、これが「天与の補正食糧」と考えられ、昭和17年に制定された学徒動員令によって、盛岡の中等学校6校、すなわち、略称で盛中、岩中、盛農、盛工、盛商、岩商が動員され、盛中は2年生以上700名の従事で、7月17、19日に出動。

  この成果は顕著で、盛中の場合17日だけでも四斗俵で79俵(約32石)を収穫。6校総計ではおよそ200石といわれた。

  この笹の実は、県の食糧営団でパンに加工され、10月13日から一人1個、米0・18リットル引きで配給になった。笹の実5割に小麦粉と馬鈴薯(ばれいしょ)が混ぜられ、焼き上がり24時間後の重量は1個188グラムだったという。

  ところが、図らずもこれを食べた妊婦は、翌日から流産、早産の中毒症にかかり、盛岡市内の産婦人科医院は時ならぬ満員状態だったとか。このため、第2回目の配給では笹の実の混合率を1割としたが、結果は変わらず、3回目からは「妊婦は食べないように」との条件が付いた。

  「竹笹学博士」こと室井綽氏は、外山牧場などの笹の実から多くの「麦角(ばっかく)菌」の寄生を検知し、流産原因説として進言したが「戦時下の国策から極秘事項とされ、新聞などへの発表も伏せられてしまった」という。

  2、笹の実:無毒説、有毒説

  笹の実は古来食用とされていて、特に「笹が豊作、米は不作」という俚諺(りげん)があり、飢饉(ききん)時の救荒食の位置付けもないではなかった。天保3年(1832年)には本州中部のチシマザサ、嘉永3年(1850年)には関西でネザサがよく実ったが、共に飢饉年だったという。

  この際に、本草学者の白雲山人の『笹の実』(1832年)、金芝山人の『竹米考』(1850年)が書かれたが、いわば「笹の実食推奨記」であり、共に「笹の実無害説」なのだ。しかしこれらの出版は古来の「笹の実有毒説」が根強く存在していることを意味してもいた。下って昭和18年の中毒事件発生は、無毒説がより有力で、有毒説が無視された結果とも言えるだろう。

  本来、笹の実そのものは無害なのだが、「麦角」は有害であり、問題は麦角の寄生いかんなのである。過去、麦角は人類の主食である麦類を通じて大害をもたらした。麦角の特性とか人間とのかかわりの歴史を確かめる意味からは、笹の実からさらに対象を麦類に拡大し、さらに食糧に飼料(畜産)分野も加えねばなるまい。

  3、麦角菌の寄生する植物について

  麦角は多犯性で、多くのイネ科植物に寄生する。ただし麦角には種類や系統に差があって、寄主は選択されることが多いようである。穀物ではオオムギ、コムギ、ライムギ、エンバクに寄生例が多く、イネ科に限られることで食・飼料の両面で問題となる。

  飼料作物としては、イネ科牧草も加わるので、麦角寄生雑草とともに付記すると、ソルガム類、オーチャードグラス、メドフェスク、ペレニアルライグラス、トールオートグラス、ハルガヤ、カモジグサ、スズメノテッポウ、スズメノカタビラ、ナガハグサ、キツネガヤなどである。

  富山県農業技術センターによれば、オオムギ、スズメノテッポウ、スズメノカタビラの3植物には共通の麦角菌が寄生するので、多発要因の可能性があるというが、基本的には薬剤防除は極めて有効ともいわれる。

  4、岩手県における麦角の歴史

  (1)古農書における麦角の記述
  わたしは麦作を含めた畑作農業の研究に多年携わっており、東北の三大農書の一つといわれる『軽邑耕作鈔(けいゆうこうさくしょう=軽米村における農耕法の抜粋)』の翻刻紹介も手がけた(日本農書全集第2巻)。

  これは160年ほど昔の弘化4年(1847年)の手稿本だが、簡潔な漢文調で麦角に触れている。「穂が出たオオムギを妊娠中の馬(孕駄=ようだ)に与えてはならない。駒にはさしつかえはない」というものである。

  これが岩手における最古の麦角の記述とわたしは思うが、著者の淵澤圓右衛門は、果たして肉眼で麦角の菌核を確認していたものだろうか。この一節をきっちりと明記した裏付けとして、彼はそも何頭の馬の流産を体験したものだろうか。

  (2)食用麦類の検査と規格の改正

  平成2年に県南(平泉)産のオオムギ(べんけいむぎ)の57袋のうち1袋から、微量の麦角粒が発見された。また翌平成3年には県中部(紫波)産のコムギ(ナンブコムギ)2840袋のうち2袋から、1袋につき20粒ほどの麦角粒が発見された。

  このころ富山県のオオムギ、北海道のコムギ(チホクコムギ)にも麦角粒の発生があり、暫定的な措置後「食用子実麦についての食糧庁の検査規格の改正」がなされるに至った。すなわち、輸入麦類に準じた取り扱い処置となり、麦角粒と菌核など(異物)の合計量が0・0%以内となるまで調整などを行うことが以後の合格基準となったのである。なお、この改正時において、麦角を知る者は周囲にほとんどいなかったことを付記しておく。

  (3)薬物としての開発と産業化

  @『薬草園物語』のあらまし
  麦角資料収集中に、県衛生研究所長の一ノ渡義巳氏(故人・盛中同期)から、岩手県薬剤師会誌の一部として恵送いただいたものである。昭和23年の薬剤師会の議会への陳情やら國分謙吉知事の指示があり、24年から薬草園が飯豊村でスタート。30年に六原農場に移されたが、昭和37年に廃止された。

  一ノ渡氏の指摘だが、昭和27年度計画中にみえる「バッカリ」は「バッカク(麦角)」であろう。構成員中では中村滝製薬株式会社(中滝)が有力であり、植物研究者として小山真一郎先生(盛中での恩師)も参画していた。

  A七三一生物兵器部隊と中滝製薬
  昭和20年代において、現在の仙北町、インテルナもりおか鰍たりに所在していた中村滝製薬は、特に麦角からの売薬開発に熱心であった。収量と処理上から寄主作物をライムギに限定し、発病上有利な多湿環境の奥羽山系に栽培圃場(ほじょう)を設置している。

  当初は、御明神で試作されたが、やがて金ケ崎町三ケ尻に移った。ライムギでの麦角菌の接種は開花期の6月で、2週間を要し、東京から専門家が来県したといわれる。

  中滝の旧職員は、麦角は731部隊の一人が満州から持ち込んだものと信じており、同部隊との人事関係・交流もあったらしい。この麦角は細菌(生物)兵器の一種として、敵国の人口資源減の戦略手段として有効とも考えられよう。

  731部隊の研究の、中滝への研究移行は必然性が高く、中滝担当員では故細野清初・タツエ夫妻との面談からいろいろと聞き取っている。

  5、世界の麦角でのトラブル

  〜聖アントニウスの業火、悪魔の蹴爪〜
  麦角の菌核中の成分は多種で、摂取量が多いと猛毒になる。また、症状も多岐にわたるものである。分娩促進、止血(子宮、肺喀血=かっけつ、腸出血)、局所麻酔、鎮痛剤などでは適量制限が厳しいことになる。

  堕胎剤、幻覚剤などの悪用例も多かったようである。記録によれば、ヨーロッパでは中世に常食的な黒パンの中のライムギによる麦角中毒が大いに猛威を振るった…とある。ロシアでは1926〜27年に1万人が発症し93人が死亡したという。

  急性中毒の症状としては流産、頭痛、痙攣(けいれん)、壊疽(えそ)、狭窄(きょうさく)症などで、手足が腐って落ちる壊疽がひどかったとある。

  聖人の修行の苦痛の業火に譬(たと)え、菌核の形を「悪魔の蹴爪(けづめ)」と表現している。
  なお、17世紀に至ってヨーロッパの麦角症はほとんどなくなったとされている。

  6、むすび
  われわれは知らぬうちに麦角事件に巻き込まれ。食中毒の加害者側に回っていたことになる。そして、一切が極秘裏に葬られ、真実はまったく知らされていなかったのである。この事件は恐らくは無知から生じたもので、責任問題には及ばないであろうが、せめて真実は明らかにされるべきである。

  考えようだが、ヨーロッパに燃え上がった業火事件ほどでなかったのは、不幸中の幸いなのかもしれない。

  その後に、アメリカ・オレゴン州からの麦角混入麦類の輸入なども何回もあったようだが、食糧庁や食糧事務所の検査で事なきを得たものと理解している。

  私事にわたるが、嬰児(えいじ)を早逝させていることもあり、わたしは水子地蔵を拝することが多い。試みに当事件の流産の子の年を数えると、もし生きていれば60歳を超えていることになる。うたた今昔の感に堪えないものがある。(元岩手県立農業試験場長、盛中60期・古澤典夫)



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