| 戦時下の盛岡中学 1 増田眞郎(昭和20年卒業生) | ||||
|
|
||||
|
まえがき わたしたち60期生は、昭和16年に母校に入学し、20年に卒業した。したがって、その在学期間は、太平洋戦争(当時は大東亜戦争といった)の期間にほぼ一致する。
5年制であった旧制中学であるにもかかわらず在学期間が4年であるのは、在学年限を短縮し、青少年をなるべく早く戦場に送りこもうという一連の措置の一環として、全員4年末で卒業となったからである。 この措置はわたしたちから適用されたので、1級上の学年は5年卒業であったし、また1級下の学年は4年生在学中に敗戦となり、その措置の適用が除かれ、結局4年で卒業したのは、後にも先にもわたしたちの学年だけとなった。一度も最高学年となることなしに卒業したのは、おそらく母校100年の歴史の中で、わたしたちだけであろう。 もっとも、こうした事情は全国どこの中学においても同じである。「中学4年卒」は、昭和3年度生まれと同義であり、その言葉一つで全国どこの中学の出身であろうと、不思議な連帯感が湧いてくる。それは同年の者が戦時下特異の似たような中学生活を全国各地で送っていたからであり、わが盛中においてもおおよそまた然りであった。 幸いにして、わたしたち同期の者の中から、戦争の直接の犠牲者は出なかった。早くから軍関係に進んだ者も、一人も欠けずに敗戦後郷里に戻って来た。動員期間中、空襲を受けても、罹災もせず、また一人のけが人も出なかった。 ただ、同じ年に入学していながら、軍関係に進んだ者は、敗戦後復員して母校に戻り卒業年度が遅れ、また正規卒業者も、動員先で行われた卒業式ののち、動員延長などで帰盛が人によって異なっていたため、実質上の卒業は、ばらばらであったといってよいだろう。 したがって、その後の相互の連絡は限られたグループ間のみにとどまり、90周年記念式典までの25年間、同窓会名簿における私たちの期のページは、氏名のみで勤務先も現住所も不明のまま放置される始末であった。その後、有志が語り合い、次第に協力の輪を広げて、約2カ月の努力の末、ほとんど全員といえるほどに完全な名簿を作りあげ、同期会をもったとき、初めてわたしたちにとって戦後が終わったという感を深くしたのである。 戦争中とはいえ、4年間の在学期間の前半はまだ古き良き時代の盛中の名残りがあったであろう。しかし、後半、特に最後の1年間は、敗戦への傾斜が急になるにつれて、いっそう国情に流され、異常なものとなっていった。もっとも、それは敗戦によっておそろしいまでの価値観の転換があったからこそ異常と現在感ずるのであって、当時はそれを異常とも思わず、わたしたちはその中で私たちの若き青春を思う存分に生きていた。 わたしたちが母校で過ごした年月は、母校100年の歴史からすれば25分の1という微々たるものに過ぎない。しかしそれがわたしたちにとつて母校のすべてであり、4年間の歴史を自ら担ったことによって、母校100年の歴史をわたしたちは共有する。まして前後数年の学年とともに、それは戦時下という特異な歴史であった。 この4年間を語り残すことに特別の意義を感じ、先に年表風の「四星霜」という記録を作ったが、ここでは主題別に、より詳しく、わたしたちの盛中在学期間を探ってみよう。 |
||||
|
|
||||
| ■コラム「連載開始にあたって」 | ||||
|
旧制盛岡中学校史上唯一「4年卒」の、わが「60期B」4年間の生活を事細かに日記にしたためていたのが、われらの級長グループの一人増田眞郎氏(東京電気大名誉教授)であり、彼はそれをもとに最も波乱に富んだ中学時代の記録を約25ページの小冊子にまとめ「四星霜…われらが盛中時代」として昭和46年に開かれた同期会にあたり、集い寄った95人(200人中)に配布、その細密、正確さに皆驚き、賞賛したのだった。 増田氏はさらにこれを主題別に組み替えてさらりとまとめたのがこの「戦時下の盛岡中学」だ。 内容は母校の書庫にも無い精密なもので、同窓生ならずとも共感できる人が多かろうと、あえて公表することとしたが、彼のほかに、同期何名かがコメント、裏話、イラストなどで色づけをすることは、増田氏も了承済み。前期「四星霜」からも付加の予定。こうご期待。(佐藤洸) |
||||
|
|
||||
| 前へ 目次へ 次へ |