戦時下の盛岡中学   10    増田眞郎(昭和20年卒業生)

身だしなみのよかった中村先生

 歴史は1年生の初めは石田弘正先生で、のちに高橋元昭先生にかわり、以後最後まで高橋先生に教わった。石田先生にはそのご教科を担当していただいたことはないが、平塚の動員先でお世話になった。

  地理は岡庭先生のあとに、熊谷勝治・貝山秀智先生に習った。熊谷先生は葉隠の話をよくされた。岡庭先生の試験問題には意表を突かれることがあったが、貝山先生は正統的な出題をされるので助かった。

 国語は1年生から3年生の途中まで、主に中村泰正先生の担当であった。頭髪をいつも整えて身だしなみが良く、おだやかで、声などはむしろ女性的であった。勉強していかないで、指されたとき答えられないと、次の時間にまた指された。

 そのときもまたやってきていないと、また次の時間に指された。まさかもう当たるまいと次の時間も予習していかないと、また真っ先に指された。

 中村先生が去られたあとは、主に目時隆太郎先生が担当された。担任もされたので、永く先生との御縁が続いた。先にしるした太平記の一節の暗唱の記憶が特に鮮明である。早口ではないが、やや身体を前に乗り出すようにして雄弁であった。

 漢文は1年生のときが藤崎総人先生、2年生が近藤季之助先生、そして3年生以降は柴田重男・上館馨文先生に教わっている。藤崎先生に初めて漢文の手ほどきをされたわけだが、生徒を指す口調に特長があった。1年生の目からすると、大変に立派な先生にみえたが、生意気にも私たちは先生をアゴとしか呼ばなかった。

 近藤先生は短気で、怒られると職員室に帰ってしまわれるので困った。いろいろと教えていただいたことも多いであろうに、わたしたちは先生にしかられたことばかり覚えている。わたしたちは先生をヒスコンと呼んだ。

 そのほか、中井汲泉先生の図画の授業で、ボール紙で立体を自分で好きな形に作ってその表面に色紙をはり、それを持ち寄って写生をした思い出は、誰しもが忘れられないものである。絵の好きな者にとって、先生はかけがえのない先達であったことだろう。(つづく)


  ■コラム「中村泰正先生(国語)」

 
  中村先生については、一ノ渡義巳氏の記憶によると「中村先生は、アララギ派に所属する歌人でもあった。ご結婚直前、その心境は、…草いきれ 草をしとねの独り身は また来ぬものと 独り楽しむ…だったと思う」というものだが、言われてみると、確かにわたしもこの歌には覚えがある。ただし「独り身」のところをわたしは「若き日は」だったように記憶しているが…。

  いずれ、わたしらが1年か2年のころ、先生は結婚されて、学校のすぐそばの路地の奥まったところに借家されていた。ご夫婦でお出かけのときは、奥様がいつも2bくらい後を歩かれたと記憶する。

  また学校農園でできた野菜を何人かが代わる代わる先生のお宅に売りに行ったものだが、もちろん坊主どもの目的は、お嫁さん拝顔にあったのである。
  個人的な話になるが、1年生になりたてのころ、先生は「母」という題の作文の宿題を出された。そのとき、わたしは名指しで褒められて驚いたのだった。「佐藤君は、思った通り、感じたとおり飾らず素直に書いた。これが大事なのです」と。

  わずか半年前に昇天してしまった母のことをずらずらと書いただけのことだった。だからタイミングが良かったのだろう。でもうれしくてわたしにとっては大きな宝物になった。その後、作文に少し自信がついたのだから。

  ところで、中村先生には、妙なくせがあった。机間巡視しながら本を読む際に、片手に持ったチョークで、生徒の机の隅にあるインク壺用のへこみをぐるぐる擦るくせだ。
  それに目をつけた某君、その凹みにインクをぼとぼと注いだものだ。先生は気づかぬままにそのチョークで黒板に青い字を書いてしまい、生徒は爆笑。しかし先生は怒りもせず、少し困った顔をされたけれど、そのまま授業を続けられたのだった。なお、中村先生にはあだなというものはなかったと記憶する。(佐藤洸) 


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