| 戦時下の盛岡中学 11 増田眞郎(昭和20年卒業生) |
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工作授業で機械製図の初歩 体操の担当は、在学中の前半は宮坂保先生で、後半は加藤昌得先生であった。また剣道は安藤五郎先生、柔道は瀬川正三郎・長沢一馬先生が受け持たれた。冬に校庭が雪に埋まると、宮坂先生の体操の時間は、つねに雪上のラグビーであった。寒気の中を走り転げてボールを奪い合う楽しい時間であった。 4年生になって、工作という時間が設けられた。従来ならば用器画とよばれる図学であったのが、わたしたちのときから変わって、機械製図の初歩を教えられた。担当は舟越健次郎先生であった。破線や点線などを根気よく何本も書かねばならず、大変であった。 すでに紙が手に入りにくくなっていたためであろう、いつからかは明確でないが、臨時試験や学期末試験の試験用紙に、古い卒業生が在学中に受けた試験答案の裏面が使われるようになった。試験答案はずっと保管することになっていたのか、土蔵から古いものを持ち出してきたらしい。 4年生と5年生に対しては、両学年合同の実力試験が、共通問題で行われるのが恒例であったらしい。終わると、上位五十番位までの者の名前と点数が、順位順に校内に公示された。 わたしたちは、4年生の1学期に、1度だけこの試験を経験した。そのときの試験科目は、国漢・数学・国史・物象で、英語が外された。それ以前のことは不明であるが、英語が外されたのはこのときが始めだったと思う。単語をよく覚えていなかったので、大変助かった。 |
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| ■コラム |
■栃原敏房先生(修身、公民) 昭和16年度1学年丁組担任でもあったこの先生は、あだなを「カバさん」と称した。 先生の忘れ得ぬ一言は「日本人は軍人が政治を握っているが、これは軍人勅諭に反するものだ。勅諭には、…世論に惑わず、政治に関わらず…とあるではないか」だった。今思えば、かなり当時としては勇気ある発言だったと思う。 ■宮坂保先生(体操) 「コッパ」というあだなであまりに有名。長野県出身、日華事変に応召し、徐州だったかの白兵戦で、10人切りをしたという武勇伝を持つ陸軍戸山学校出身の中尉さん。いつも自転車に軍服姿、左手をげんこつにして、行儀の悪い生徒をたしなめながら登校なさる。 特技は入学早々の生徒でも、その出身地をほとんど言い当てられること。だから生徒はコッパには「かなわない」となる。 「こーりゃ、九戸の山猿、だめじゃないか、アン?」といった具合なのだった。 しかしいつ怒鳴られても、顔のどこかが優しいものだから、全生徒に敬愛されたという気がする。わたしがコッパさんに用事で職員室へ行った時のこと、入り口に立って大声で「1年丁組佐藤は、コッ…」と、危うくあだなを言いそうになってヘドモドしていたところ、宮坂先生「ん?俺か、俺はな、宮坂って言うんだよ」とおどけた顔でおっしゃった。 わたしは冷や汗かいてやり直し「…宮坂先生に用事があってまいりました」と申告したのだった。 彼の体操(今で言う体育)の試験はおおざっぱなもので、冬はラグビー。雪まみれで鼻血ぶったらして駆け回るのが「甲」で、もさっと突っ立っているのが「丙」だった。でも誰も文句は言わなかった。 ■安藤五郎先生(剣道、一時期は生物も担当) あだなの「ハクトン」のほうが通りがいい。赤ら顔で肥満型の「セキトン…赤豚」の対角にある青白い顔の「白豚」なわけだが、この先生の、横隔膜から絞り出される気合いの声は絶品だった。 人生訓がお得意で「後悔を先に立たせて後から行けば、つえをついたり転んだり」がなぜか身に染みている。 剣道のほか、作業の指導でも「まき割りのこつは腰だ。まきは腕でなく腰で割るものだ」。これも忘れない。(佐藤洸) |
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