戦時下の盛岡中学   13    増田眞郎(昭和20年卒業生)

全校作業で大豆を収穫 給食のみそ汁に
 昭和17年度の全校作業は、4月8日に始まり、12月2日で終わっている。夏期鍛練期間中の2日を除くと、全日作業日は5月1日(金)と6月6日(土)の2日だけであった。大豆・じゃが芋・大根・かぶ・からし菜・そば・きく芋などが栽培されていた。8月12日には、農園でとれたじゃが芋一貫目を買っているが、値段は不明である。

  秋に大豆の収穫が終わると、抜いてきた大豆を校舎の外壁に沿って並べて乾燥させ、時間割に組み込まれている作業の時間に、西控所の床でこれをたたいて大豆の実をとった。とった大豆を弁当箱にしのばせて持って帰る者もいた。

  このようにしてとった大豆を、みそ屋に持っていき、みそに代えてもらって、それを用いて昼食のときにみそ汁の給食が始まったのは、昭和18年の4月12日からである。担任も教室で一緒に弁当をひろげ、みそ汁の配食が終わると、先生と一緒に二拍手をして一拜、それから食前の感謝の辞を唱えて、ふたたび二拍手をし、「いただきます」といって食べ始めた。みそ汁は木の桶に入れて、炊事室から週番が教室に運んできた。みそ汁わんは、各自が弁当と一緒に自分のものを持参してきていた。

  昭和18年の12月4日には、農園でとれた陸稲で作った赤飯の折り詰めが、全校生徒に配られた。

  作業は小山眞一郎先生の指導のもとに行われていた。先生担当の生物の時間には、授業をしないで農園に行って作業をし、そのお礼だといって大根を一束もらって家に持ち帰ったこともあった。

  作業も初年度が大変であったほかは、その後そうたいして手はかからなかったと思う。年間の全校作業は、結果的には14、15日程度行われており、その中の4、5日が全日作業であった。このほか、学年または組単位で、臨時に作業園に出かけることがあった。

  昭和19年度、わたしたちが4年生になってからは、全校作業は行われていない。わたしたちの学年が作業園に行った記録は、5月10日の1回だけしかない。そのときは土おこしをやっている。「何事をするにも人に負けぬという気概をもって行わねばならぬ」と高橋元昭先生に言われて、全員心から働いたとある。


  低学年の人々は、その後も農園作業を続けていたのであろうか。 (つづく)


  ■コラム

 ■小市巳世司先生
  このたび阿部功氏から送られた「群馬白亜会」の文集によって、あの個性派国語教師、小市先生がお元気で今なおご活躍と知らされた。
  もっともわたしらは臨時に習字の監督の先生としてたった1回教室でお目にかかっただけ、という気がするが、いずれ東京帝大出の風変わりな先生としての記憶しかない。
  教室の隅っこで、1時間たっぷり居眠りに終始した先生。のぞき見た目に映った先生の腰のベルトはなんと、麻縄だったか、古いネクタイだったか、まともなベルトではなかった。面白い先生だ、とかなり興味を覚えた記憶がある。
  さてその小市先生、3級先輩の中村昌介氏によれば、いきなり万葉集の歌何首かをプリントして渡し、猛烈な速さで講義した挙げ句、「質問ないか」。
  そして期末テストは「草枕を読んで知れる処を記せ」の1題だけだったとのこと。
  さらに中村さんによると、毎朝遅刻する先生あり、降っても照ってもゴム長靴、開校時間校門で遅刻者チェックがあり、遅刻しそうになったら、その先生を街角で待ち受け、そのあとにくっついて登校したら、無事校門通過できたという。
  生徒はこの先生を「朝の神様」とあがめたものだという。
  先生は青年時代から土屋文明に「アララギ」を通じて師事した歌人であり、土屋の秀歌百選を地元の新聞(群馬)に3年にわたって連載したとのこと。
  ■「アゴ」こと藤崎総人先生
  これも3級先輩で武智校長のご子息であり、わが同期の武智君の兄上でもある山崎敞氏による「群馬白亜会文集」の中の記述では、平成9年の暮れに千葉市のお宅を訪問して当時87歳で独り暮らしの藤崎先生と親しくお話してこられたことを述べておられる。
  また山崎氏は小市先生のことも、あだなが「ワラジ」または「ゾウリ」だったこと、奥様が土屋文明のお嬢様だったことなどを記述しておられる。(佐藤洸) 


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