戦時下の盛岡中学   15    増田眞郎(昭和20年卒業生)

勤労奉仕作業始まる
私たちが行った勤労奉仕を一括すると、次の通りである。
  2年生(昭和17年度)
◆四十五部隊兵舎清掃作業(8月12日)

◆道路修理作業(11月24日)3年生(昭和18年度)

◆黒石野射撃場勤労奉仕(6月3日・16日・7月26日・9月2日の4日間)もっこで土を運ぶ単純な重労働であった。

◆雫石川での砂利と砂の採取作業(8月4日)川の土砂をすくい、ふるいで砂と砂利とに分けて、トロッコに積み込む仕事であった。30人が一組になって、8時から3時まで行った。大湊の海軍警備府に送り、軍用に供するものであった。
◆岩山での草刈り作業(8月13日・28日の2日間)

◆大志田での熊笹の実採取作業(7月17日・19日の2日間)17日朝4時30分、盛岡駅集合。大志田にて下車ののち、3時間45分急な山道を歩いて9時に目的地に到着。4斗俵に79俵とって帰る。

19日に再び行ったが、3年生の場所は他校がとったあとだったため、各組数俵しかとれなかった。なおこの作業は、初めて学徒動員令の適用として行われたもので、その強制力によって、すでに始められていた学期末試験を中断して実施された。

◆水分村稲刈勤労奉仕(10月1日より4日まで4日間)1日朝7時、盛岡駅集合、7時52分矢幅着、10時20分水分村国民学校到着。村の受入れ式があり、その後各自の割り当てられた農家に向かう。初日を除いて雨ばかりで、稲刈りはほとんどできず、主として縄ないなどに暮れた。大変なご馳走をしてくれたので、奉仕といえたかどうか疑わしい。肝心の稲刈りができなかったのだから、農家荒らしであったかもしれない。

◆七十九部隊兵舎作業奉仕(11月9日)雨で下着の果てまでぬれたことのほか、作業内容は不明。

◆太田村土地改良勤労奉仕(1月25日より27日まで3日間)8時半から3時まで、山からそだを背負っておろしたり、丸太をひきおろしたりする作業が主であった。作業のほかに、往復16キロの道を歩いて通うこともつらかった。また寒中の屋外作業はこたえた。その点で記憶によく残っている。
 
4年生(昭和19年度)
◆太田村土地改良勤労奉仕(4月6・7・9・10・11日の5日間)溝堀り、これは水に浸りながらの作業。またその溝に丸太やそだを詰める。予定を1日延期して11日まで行った。11日は気温が上がって暖かであった。

◆雫石町土地改良勤労奉仕(5月1日)

◆雫石川での砂利と砂の採取作業(9月2日より4日までの3日間)
  土地改良というのは、排水の悪い田圃に深く溝を掘り、それに丸太やそだを並べて再び土をかけ、地下水の流路を作って排水を良くしようというもので、これによって米の増収が図れるとされていた。米があり余っている現今からすると、うそのような話である。
  (次回は「勤労奉仕特集」として他の同級生の文を掲載します) (つづく)


  ■コラム

 ■農園開墾
  昭和16年、われら1学年になりたての4月9日水曜日、午後は全校で農園作業。学校の近くにも小さな畑はあったが、全校作業のための畑はこの日から開墾に入ったのだった。
  場所は現在のアネックスカワトクのあたり、今の盛岡三高の場所に師範学校があり、師範校の隣に盛中の畑が起こされることになったのだった。
  当時そこには修道院もあり、塀を越えて「見学」に忍び込んでしかられた者もいたとかいないとか。
  この日をスタートに毎週水曜の午後は全校作業で、3週目の23日は朝から全日作業だった。しかし1年生は力仕事らしいものは与えられず、上級生が大汗かいて掘り起こしたでっかい木の根っこを片づけたり、いちばん暇でブラブラしていたように記憶する。
  最もまじめに働いたのは最上級の5年生だった。5年生を尊敬の目で見た最初の時間だった気がする。
  1年生はとにかく暇をもてあまし、中身は忘れたが、いろいろと知識を振りまいて討論みたいなことをそこここでやっていた。その中に、確か2年くらいの時に亡くなった高瀬というピアノが上手だという利口そうな生徒がいたのを、不思議とよく覚えている。
  この開墾作業は7月6日、なんと日曜なのに全校終日働いて、この日で終了したのだった。(佐藤洸)

 ■稲刈り奉仕作業(「四星霜」を基に)

  わたしたちが3年生だった昭和18年、10月1日から同4日まで、3年生は紫波郡水分村で、泊まりがけの稲刈り奉仕をした。農家に分宿しての仕事だった。
  1日朝7時盛岡駅集合。同38分発、矢幅着7時52分、徒歩で水分国民学校到着10時20分。11時20分に式があり、12時、各グループごとに宿舎に入る。しかし結局、台風襲来で稲刈りはほとんどできず、馬草切り、縄ないなどをしたグループもあったりした。帰りは4日午後3時50分盛岡駅着。(以上「四星霜」)
  筆者は3年4組だったが、宿舎は海軍将校さんの留守宅で大きなお屋敷だった。第一夜はご親戚が集まって歓迎会をしてくださったり、おもちをついてくださったり、台風で働けない3日間こちらが逆に何かとお心遣いいただいて、最後まで恐縮のしっぱなしだった。
  そのご厚意に甘えて、さんざんごちそうになった上、毎夜、消灯後は暗い中で、ませたやつのきわどい話に興奮させられ通しだったのはひそやかな収穫だったと言えようか。
  そして初日は午前中だけの奉仕。これも初めて見た鋸(のこ)歯の稲刈り専用鎌を使っての作業だった。
  それにしても、わたしらは一体何をしに行ったのだろう。60年を経た今でも申し訳ない思いから解放されないままなのである。(佐藤洸) 


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