戦時下の盛岡中学   16    増田眞郎(昭和20年卒業生)

勤労奉仕特集(続き)
「砂利採取」
 昭和19年度は、年度初めから授業はほとんどできず、4月早々から勤労奉仕。戦時輸送の重要性に鑑み、安全運転の根幹をなす線路道床の敷き砂利採取の作業開始。

  朝7時過ぎの橋場線に乗り。盛岡大釜間のやや盛岡寄り、大館稲荷付近で途中下車、砂利線に沿って雫石河原に行き、鉄道の菜っぱ服や地下足袋に着替えるが、それまで大勢の人が着用したものをサイズも左右もばらばらのまま着用して1週間を過ごした。

  作業はスコップでかき集めた砂利を金網を張った箱枠に投石して、網を通った石が規格品、それ以外は規格外として採取所以外の場所に、規格品は一定の場所にそれぞれ集積する作業だった。
  それにしても現場は握り拳ぐらいから大小さまざまの砂利層なのでスコップがささりにくく、跳ね返るのでよほど腰に力が要り、なれない中学生にとっては過重に思えた。 (村田榮男)

「思い出」
 60年前の自分の作文(報国団団報中の「豆を引く」)を読んで、思わず身につまされた一つが、冒頭の会話にでてくる農園作業の日に各自一本ずつ持ってきた「縄」だった。…今だったら、子供に持たせる縄を、捜すのに苦労しない家庭のほうが稀だろうし、そんなものは学校側で用意するものだ、と思われそうだ。あの頃の庶民生活の勝手口を垣間見せる片方で、窮乏の時代を映し出した一コマと言えまいか。

  その「縄」で思い出すのが、勤労奉仕の幾つかの場面だ。4年生になってからの勤労動員には幾許かの悲壮感が伴うが、昭和18年、3年生の頃の勤労奉仕は、本人達にとっては、お役に立っている実感にも支えられて、結構楽しいものだった。

  あまりお役に立てず悔いの残った、しかし楽しかったのが、水分村での稲刈り奉仕だ。僕等が泊めて頂いたのは、ご当地の豪農らしい鷹觜様のお宅で、なんでも海軍士官だというご主人が応召なさって、留守宅を守る若い奥様がお綺麗だった。

  当時巷間に在った「銃後の花嫁」という言葉を浮かべながら仰ぎ見た時の眩しさを思い出すのだが、その輪郭はどうしても浮かんでこない。僕の頭の中では舟越健次郎先生の奥様(=上館馨文先生の姉様で、僕には忘れられない小学校での教生、房子先生)のイメージと重なってしまう。
  さてその稲刈りだが、まともにやれたのは初日の午後と2日目の朝だけ。せっかく、鎌の背と左手で寄せて2株ずつ一つかみでバサッと刈る要領を覚えて得意がったのに、翌朝からの雨降り。村の人たちは代わりに縄ないをさせてくれた。

  なうのはさほど難しいとは思わなかったが、細くなったり太くなったりそれでも一見たくましいのが出来た。これに対して、土間に据え付けた足踏み機械でなう縄は、太さは整っているものの、よりが必要最小限でひ弱な感じだったが、4、5本ずつワラを絶やさぬように二つの小さいラッパ口から入れていくとビュンビュン出来てリールになっていくのが滅法楽しかった。

  ところが次の日も、また次の日も雨、縄ない、それでもやっと晴れた四日目は、土間で餅つきをさせてもらい、村人はそのつきたてのおもちで僕等をねぎらって下さった。その臼をおばさんたちが据えるときだったろう。

  「男がいなくてねえ」とこぼした声にすかさず「オラも男だよ」と返したのは鎌田毅郎君。その間合いの良さに、おばさんたちがどっと湧いたものだった。主を戦地に送り出してそれでもみんな明るく耐えていた。

  学校へ戻ってからも何だか申し訳なくて、もう一度稲刈りに行き直そうと、クラスで有志を募り、翌週だかに諸般段取り整ったころに「却ってご迷惑」との親たちの意見に腰が折れ、とうとう首謀者の僕も意を決して実行前日、鷹觜様に電報を打ち、追っかけてお詫び状を投函したというしょっぱい思い出のおまけが付いている。 (鳥生敬郎)

「稲刈り奉仕」
 昭和18年10月1日から4日までの水分村稲刈り奉仕に関連して、あの時の台風につき「岩手災異年表」から記事の一部を拾ってみた。すなわち−
  10月2〜3日 台風による暴風雨
  9月26日ポナペ島北方500キロ付近洋上に熱帯低気圧発生、台風となって10月2日6時硫黄島南西250キロまで北上、中心気圧960mb。盛岡ではこの頃から雨となった。

  台風は3日6時、八丈島南西海上から三宅島東方を通り、富崎の東に上陸。福島東岸から松島を通って岩手に入り、3日18時宮古北方で971mbを示し、海上に抜けた。

  最大風速は水沢で3日16時北北西15・3b毎秒。県南部、県北部に多雨域。
  県内の主な被害は、死者2、不明1、建物全半壊計5、浸水約900戸、道路損壊11、水田、畑冠水計約1500ヘクタールとある。

     ◇  ◇    
  余談…男所帯 夜話
  あの当時の中学3年といえば、やっと変声期を抜けかけたとか、ヒゲも見え始めたころである。最も性を意識し、密かに興味を示す年頃。それが、台風に閉じ込められて2日間、10人くらいずつ分宿しての消灯後、となれば、ませた奴の、暗がりでの役割は当然、おきまりの性情報披露が主となる。

  そこここからクスクス笑いがおこる。興奮して眠れない。
  こんなことがきっかけで、色んな意味で友を見直したり、一つ大人になった気がしたり、思えば一大脱皮の合宿ではあった。

  その後大っぴらには歌えない替え歌や、デカンショ節等々、一挙に覚えてしまった気がする。一部を紹介する。

  デカンショ節では…
  「ゴマと豆腐を一緒に食えば、薩摩絣のクソが出る」「万里の長城でしょんべんすれば、ゴビの砂漠に虹が立つ」「奈良の大仏○○かけば、奈良の都はノリだらけ」「橋の上からべたクソすれば、下でドジョウが玉子とじ」「塀の向こうを○○あ通る、頭見えたり隠れたり」(これはさすがに声を出して歌うのがはばかられた。)
  数え歌方式の戯れ歌としては、たとえば 「チャンコしたいとて鍛冶屋さんとやれば、あたまトンテんカンの子ができる、チャンコリン、チャンコリン」…職業別シリーズになっていて、対象は巡査、教師、医師等々。

  なにしろ超汚い歌詞ばかり出てきて、感心と寒心が一緒になってしまう。
  この余談は増田氏には無断につき、責任はすべて小生(佐藤)に帰するものであることを申し添えます。(佐藤洸) (つづく)


 
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