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戦地へ生徒追い立てた配属将校
卒業ができれば卒業式で卒業証書はもらえるが、そのときもらえるとは限らないものに教練検定合格証明書という薄い1枚の紙があった。
「右ハ昭和二十年三月二十九日當校卒業ノ際教練ノ検定ニ合格シタルコトヲ證ス」。
発行者はその時の配属将校(軍事教官)であって、学校長ではなかった。優等賞などというものは、もらってももらわなくても、その後の一生に特にさしさわりはないが、この一通の証明書をもらえないと、教練検定不合格の朱印が内申書に押され、上級学校入学は事実上不可能であったし、兵役についても、まずは下っ端の兵隊で甘んじなければならなかったであろう。
配属将校として派遣されてきている大人の将校が、たかが十五・六の少年の全くの偶然とでもいえる過失をなじって、早速に教練検定不合格の烙印を押し、ついにその者は、20年3月の卒業時、進学をあきらめる窮地に追いやられた。
幸いにして、間もなく敗戦となり、日本が悪夢からさめえたために、彼は翌年、1年遅れただけで進学し、事無きをえたのである。その苦悩を知る者は、本人しかいない。わたしたちは、卒業後30年もたってから、彼自身からその話を初めて聞いて、ひどく驚いたものである。
私は4年生のとき、その配属将校に呼びつけられて、「貴様はなぜ軍の学校を受験しないのか」と問いつめられたことがある。
「わたしは科学技術で国のために尽くしたいから受けません」と答えたが、今考えるとぞっとする話である。私たちの1級下の学年を、予科練全員志願という挙に導いたのも、この配属将校であったという。
いかに戦時色が濃いとはいっても、教練を除くと、どの学科の場合も、そこには教育の場としての面影が残されていた。しかし、教練だけは違っていたといわざるをえない。軍部が教育の場に深く侵入していたのである。
わたしたちの数年上級の人たちまでは、わずかながらも軍部の制圧に対して反抗する力をもっていたかもしれない。しかし、わたしたちのころは戦時色一色となったため、そのような批判力をもつことなど夢にも考えたことはなく、ただひたすらその制圧にひれ伏していたといってよい。
それは生徒だけではなく、先生たちにおいても然りであったと思う。「鬼畜」とか「黒豹」というあだ名を配属将校に捧げることが、私たちの為しえたすべてであった。
軍部の学校侵入の任を一身に担っていたおそるべき配属将校を除くと、教練担当の先生たちは、予備役の将校であるため軍服こそ着ていたが、やはり先生らしかった。
対馬鉄男先生は、私たちが生まれたころから盛中にいらしたので、真から盛中の先生であった。わたしたちは対馬さんと陰で呼んで親しんだ。田口辰蔵先生も、わたしたちの学年とかかわり合いが深い。3年生の2学期には、1組の担任もされた。
1・2年の教練は徒手であり、3年になって初めて銃・剣を持った。銃器庫には三八式歩兵銃と若干の騎兵銃、それに数挺の空包用の機関銃とがあった。のちになって、もっと新式の小銃も若干配備された。銃の数がどれだけあったかは記録していないが、2学年分を賄う数はあったようである。自分の使う小銃は番号で決まっていた。人間の生命より兵器の方が大事にされていた時代だから、その取扱いはやかましかった。(つづく)
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