戦時下の盛岡中学   19    増田眞郎(昭和20年卒業生)

報国団結成式
 
わたしたちが入学して間もなく、昭和16年の5月12日に「盛岡中学校報国団」の結成式があった。当時はそれの意味するところが分からなかったが、要は従来の校友会を戦時下らしく改称・改組したものであった。昭和17年の1月12日には「盛岡中学校報国隊」の結成式が行われた。報国団と報国隊との関連は、わたしたちにはよく分からない。

  従来の運動部や文化部は、改編されて報国団に入っていたのに反し、報国隊の編成は学年・組単位で、5学年から1学年までが順に第一中隊から第五中隊と呼ばれ、また各中隊は甲・乙・丙・丁組(のちに1・2・3・4組)の順に第一小隊から第四小隊と呼ばれていた。
  その後、全校行軍(遠足とは言わなかった)のときなど、それを報国隊編成で行ったという記録もある。また、4年生になって平塚に動員されたとき、わたしたちは盛岡中学校報国隊第二中隊であると称していた。

  一方、昭和18年7月15日に、視学官や県下中等学校長列席の下に、「報国団査閲」が行われている。そのときすでに報国隊は結成されていたので、報国団と報国隊とは同一のものではないらしい。

  この辺の事情は、当時の学校の当事者に伺わねば分からないことである。私には、報国隊というのは、戦時意識を高めるために、学年・学級の呼称を軍隊風になおしたもののように受け取れる。
  報国団と呼ばれようと、報国隊と呼ばれようと、従来の運動部や文化部の活動自体が急に変化したわけではなかった。・・部という名前が・・班とよばれるようになったくらいが、生徒側からみた変化であった。

  他校との試合や競技大会が行われていた昭和16・17年には、わたしたちは低学年であったし、高学年になると戦局が危うくなって、競技大会は銃剣道等を除いてほとんど行われなくなったので、いろいろの部(班)に入って練習には参加していても、選手として出場した経験のある者は、わたしたちの学年にはほとんどいないはずである。

  低学年のとき、対外試合のたびに大変だったのは応援である。入学して間もなく、5月の始めに行われた恒例の応援歌練習は、1年生にとって、誠におそろしいものであった。子供のころの5年の違いは、大変な年齢差である。

  1年生からみる5年生は、先生と違わない大人であった。むしろ、よりおそろしい大人であった。いつ殴りとばされるか分からない恐怖におびえながら、歌を覚えることよりも、いかにして早く時間が過ぎ去らないものかと念じた。中学に入ると、先生の手の全く及ばない世界があることが、新入生にとっては不思議でならなかった。

  ただ、校歌や応援歌を、恐怖にかられながら、頭でというよりもむしろ身体で覚えたた
めか、三十数年たった今でも忘れていないのが面白い。

  応援で私がよく覚えているのは、2年生のときの5月9日に、盛商との野球試合に7対4で負けて、帰り道住吉神社の境内に全員座らされて、「お前たちの応援が悪いから、きょうの試合に負けたのだ」と、4級上の当時の5年生にわめかれたことである。

  土の上に長時間座らされてつらかった。当時の応援の指導者たちは、専制君主の趣があり、彼らの鉄拳制裁をまぬかれることに関心があった。(つづく)


  ■コラム

 ■負け試合の応援
  印象に残っているのはやはり全校応援を強いられた野球、ラグビー、柔道の試合だろうか。
  野球では何と言っても市営球場における対盛岡商戦の敗戦。負け試合のあとは出欠を取り、長々説教されるのが習わしであり、あの時は住吉神社の境内、玉砂利の上に座らされての説教は暗くなるまで続いた。

  心配した親たちが何人かちょうちんを下げて迎えにきていたが、じっと終わりを待っていたものだった。

  敗戦の責任はいつも、下級生の応援の弱さのせいにされるのは悔しかった。
  ラグビーも何回か上田の「医専グラウンド」で、岩手中学や岩手医専との試合を応援したが、一度も勝った試合を応援した記憶がない。

  だからいつも厳しく出欠を取られた。
  しかし柔道は、県下で優勝したこともあり、そのほかライバル岩手中学との一戦はいつも楽しみで、応援のしがいもあり、印象深い。両軍の選手の名前もみんなよく覚えていた。盛中は荒谷、前野、飯田、小川、矢羽々といった諸先輩、岩中のほうも赤坂、佐藤、山瀬といった方々の名前が記憶にある。


  ■応援歌練習
  入学後、上級生の怖さ、すごさをまず見せつけられるのが応援歌練習であり、西控え所に集められ、時には正座でめい目させられ、説教されるのだが、5年生の中にはカンシャク玉など持ち込み、いきなり床に打ち付けて爆発させ、びっくり跳び上がったすると「こりゃ、なすて動いだあ!」などと怒鳴る。

  理不尽な、と思うのだが、こうもはっきりめちゃくちゃだと、その無法を滑稽と受け止めて許してしまった気がする。

  も一つその例として、わたしが1年丁組で一緒だったF君、みんなと一緒に正座していたら、5年生の一人が寄ってきて、F君の名札を見て言った。


  「おう、んな(お前)、…○○子の弟か。そうが、んなのあねっこ、シャンだものな。」F「はあ?」「シャンだでア」「は…」「んだがらよ、んな、もは、けえれ(帰れ)」
  …キョトンとしたF君、けげんな顔のまま帰宅したものだ。


  F君の姉はスポーツでも有名、美人としても有名で、校内のあちこちに彼女の名前が落書きしてあったものだ。しかし、姉が美人だからと、弟が応援歌練習免除とは、こんな話が堂々とまかり通る、恐ろしいなどと言うなかれ。


  わたしは全く腹が立たなかった。不思議に。
  そして、卒業後何十年もしてから、同期会の最後の場面、校歌、応援歌を斉唱する段になった時、ほとんどそれを歌えなかったのがF君。


  60年前の練習免除のツケ、とご本人も認めていたし、これはこれで、ほほえましい話題に組み込まれているのだ。


  ■ウラー盛中!
  わが盛岡中学には独特の雄たけびがあった。
  最近はめったにお耳にかかれないが、応援といえば大概、「フレー、フレー」というかけ声だか雄たけびだかが用いられる。ところが盛中ではこのほかに「ウラー、ウラー、ウラー盛中」というのがあった。

  なんでも、ウラーというのはロシヤ語で、日本で言うなら万歳に当たるのだそうだ。おそらく日露戦争で仕入れたものがその後ずっと昭和20年近くまで残っていたものだろうか。そして、消え去ったのはいつごろだったのだろうか。(佐藤洸) 


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