戦時下の盛岡中学   20    増田眞郎(昭和20年卒業生)

初級滑空機「鵬(おおとり)」

 新入生であったころ、おしなべて5年生は皆こわいのだと思っていたが、部に入っていろいろの人を知るようになると、皆それぞれ違った味をもっていることが分かってきた。
  自分の育った環境や性格によって、親しめる人・尊敬できる人のタイプは異なっていたであろうが、多様な人格・強烈な個性に触れ合うことによって、新たな発見が生まれ、知らず知らずのうちに、人間は向上していくものであろう。

  名前は報国団であろうとも、また対外試合の機会が減じようと、学校教育において部活動の果たす真の意義は今も昔も変わりなく、当時も十分にその機能を果たしていたというべきであろう。
  ここで古くからあった部と異なり、当時作られ、当時だけ存続した特異な「部」である
滑空班について記しておこう。


  朝日新聞社が全国各地の中学校に順次寄贈していた初級滑空機(プライマリー・グライ
ダー)駒鳥型が、昭和18年の9月、盛中にも寄贈された。命名式が9月29日の5校時に行われた。そして鵬(おおとり)と命名された。

  滑空班の成立過程は、他の古くからあった班(部)とは全く異なり、班員の募集・選考
はすべて学校によって行われ、3年生から21名の班員が決まった。当初の班員に他の学年の人がいたかどうかは不明であるが、練習は当時3年生であったわたしたちの学年の21名だけで行われた。指導者は中村健三先生であった。


  滑空班の最初の目標は、その年の11月25日に水沢で開催される滑空訓練査閲に参加することであった。そのため、11月に入って、急に速成訓練が始められた。班員は滑空訓練最優先で、授業や作業に出ることなしに訓練を受けるように指示された。

◇  ◇
  11月8日の初訓練に始まる練習状況は次の通りであった。
  11月8日 ゴム索の使用法
  11月10日 5時間目の作業は、滑空班は訓練にふりかえ。機体組立て。先生の試乗があり、鵬が初めて空中に浮く。百余メートルの滑空。高度は3メートルくらいであった。班員も2番まで搭乗し、地上滑走。
  11月14日 日曜日であったが、終日校庭で訓練。各人3回搭乗し、地上滑走を行う。地上滑走でも、時には2メートルくらい上に浮くことがあり、1千メートル上がったような気がした。
  11月17日 4・5年は連合演習、3年は作業であったが、滑空班は訓練。途中で張線が切れ、補充がつくまでに時間がかかり、全員搭乗とまではいかなかった。
  11月19日 3・4校時授業を休んで訓練を指示される。午後朝日新聞社がグライダーの写真をとりに来た。
  11月22日 午後訓練。地上操作のみ行う。
  11月23日 新嘗祭のため授業はなかったが、滑空班は8時学校に集合。校庭が雨でぬかっていたので、午前は中止。かわりに鵬を借りに来た盛商滑空班の機体組み立て・分解を見学する。県下では、遠野中学・盛岡商業などが前から滑空班を持っていて、腕前はさすがに上であった。午後は21名全員が一度ずつ搭乗。地上滑走はできるようになった。
  11月24日 滑空班は朝から授業に出ないで訓練であった。総仕上げということで、校長先生や教官(配属将校)も訓練を見守った。
  11月25日 査閲の日を迎えた。朝5時10分盛岡駅集合。滑空班21名に、校長・教官・中村健三・柴田重男・村田善治先生が同行された。7時半ころ水沢着。公園広場において9時半査閲開始。初めに閲兵。つづいて各学校ごとに査閲が始まった。盛中の順番は一番最後であったが、盛中の前の受閲校であった遠野中学が事故をおこし、1名の負傷者を出し、翼を破損した。そのため、盛中は搭乗の機会なく終わった。当日、機体は1機だけが使われていた。学科では盛中が大いに健闘した。滑空原理などが口頭で試問された。最後の講評では、盛中・盛商・六原青年学校が良好とされた。

  このようにして、滑空班の第1回速成訓練を終えた。
  その後、練習はずっと途絶えた。他の班と違って、滑空班は完全に先生の指揮・指導下
にあったので、生徒だけで集まって練習をすることは全くなかった。  (つづく)


 
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