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県下中等学校滑空大会行われる
9月26日
いよいよ、県下中等学校滑空大会の日が来た。この鶯宿滑空訓練所は幅300メートル、長さ600メートルぐらいの広さをもっていたであろうか、この何年か前に、中等学校生徒の勤労奉仕で作られたものであった。
大会は競技大会とはいわなかったが、点数で順位がつけられたので、実質的には競技大会であった。当時は対校競技は戦時下ということで禁じられていた。この日以前のことはよく知らないが、県下中等学校が一つの場所に集まって、本格的に滑空大会を開催したのは、後にも先にもこの時だけであるように思える。
前年度の水沢におけるものは、もっと規模が小さかったし、査閲という名前であった。遠野中学・盛岡商業などの古株にまじって、盛中は訓練歴の最も浅い、全くの新参校であった。
当日は秋日和ではあったが、10メートルに近い風があった。初級機としては、飛行できる限界の風速であった。
参加校数は記録していないが、組立ては6校が同時に行い、それが終わると2校ずつ滑空を行った。盛中は10番目で、12時55分組み立て開始、59分終了。調整満点で、東北新記録といわれた。
滑空も10名が無事規定の40分以内で搭乗して、平均滞空時間16秒、技量優秀者5名であった。上昇中に横からの突風にあふられて、大きくコースをそれたが、機首を立て直したのち、一度も実地訓練をしていなかった旋回動作を、本で読んでいた知識のみを頼りに行って、定められたコースに戻るなど、練習中よりもはるかに上手に冷静に、10人の搭乗者が飛んで、他校と比べて全く遜色がなかった。
9月27日
朝、閉会式が行われた。わずか0・7点差で盛中は2位となり、最古参の遠中に1位をゆずったが、よくぞ短時日にここまでやったと、先生たちも班員も満足であった。学校の機体を荷作りする心も軽かった。
おそらく、戦時下におこなわれた対校試合というものは、これが最後だったのではないだろうか。
このあと10日ほどして、わたしたちは動員で平塚に出動したので、滑空班の活動もこれで終わった。下級生の人たちが、その後、訓練を行ったのかどうか、また敗戦後占領軍によって所有を禁じられた滑空機が、どう処分されたのかもわたしたちは知らない。
文部省一型の方は、結局命名式も行われずに終わったのではなかろうか。 (つづく)
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