戦時下の盛岡中学   23    増田眞郎(昭和20年卒業生)


県下中等学校滑空大会行われる 

9月26日
  いよいよ、県下中等学校滑空大会の日が来た。この鶯宿滑空訓練所は幅300メートル、長さ600メートルぐらいの広さをもっていたであろうか、この何年か前に、中等学校生徒の勤労奉仕で作られたものであった。

  大会は競技大会とはいわなかったが、点数で順位がつけられたので、実質的には競技大会であった。当時は対校競技は戦時下ということで禁じられていた。この日以前のことはよく知らないが、県下中等学校が一つの場所に集まって、本格的に滑空大会を開催したのは、後にも先にもこの時だけであるように思える。


  前年度の水沢におけるものは、もっと規模が小さかったし、査閲という名前であった。遠野中学・盛岡商業などの古株にまじって、盛中は訓練歴の最も浅い、全くの新参校であった。
  当日は秋日和ではあったが、10メートルに近い風があった。初級機としては、飛行できる限界の風速であった。

  参加校数は記録していないが、組立ては6校が同時に行い、それが終わると2校ずつ滑空を行った。盛中は10番目で、12時55分組み立て開始、59分終了。調整満点で、東北新記録といわれた。

  滑空も10名が無事規定の40分以内で搭乗して、平均滞空時間16秒、技量優秀者5名であった。上昇中に横からの突風にあふられて、大きくコースをそれたが、機首を立て直したのち、一度も実地訓練をしていなかった旋回動作を、本で読んでいた知識のみを頼りに行って、定められたコースに戻るなど、練習中よりもはるかに上手に冷静に、10人の搭乗者が飛んで、他校と比べて全く遜色がなかった。

  9月27日
  朝、閉会式が行われた。わずか0・7点差で盛中は2位となり、最古参の遠中に1位をゆずったが、よくぞ短時日にここまでやったと、先生たちも班員も満足であった。学校の機体を荷作りする心も軽かった。


  おそらく、戦時下におこなわれた対校試合というものは、これが最後だったのではないだろうか。
  このあと10日ほどして、わたしたちは動員で平塚に出動したので、滑空班の活動もこれで終わった。下級生の人たちが、その後、訓練を行ったのかどうか、また敗戦後占領軍によって所有を禁じられた滑空機が、どう処分されたのかもわたしたちは知らない。

  文部省一型の方は、結局命名式も行われずに終わったのではなかろうか。 (つづく)
 
 


   ■コラム
■「四星霜から抜き書き」

 昭和19年6月17日(土)
  本校に学徒動員令下る。
  …3、4年生松尾鉱山行
  き決まる。


 同年6月20日(火)
  海洋訓練(宮古磯鶏海岸
  道場)25日まで総員10
  0名、朝5時半、山田線
  で出発
  最終日は15時28分磯鶏発
  で帰盛

 同年7月18日(火)
  4年生の松尾行きが急に
  決まり3校時その注意あ
  り。
  …この日サイパン玉砕の
  報に接す…

 同年7月20日(木)
  4年第一陣松尾へ。…こ
  の日盛岡大雨、市内河川
  増水。富士見橋が流失し、
  堤防決壊もあり。

 同年7月27日(木)
  第2陣松尾行き。


 同年8月20日(日)
  午後松尾から帰る。

 同年8月26日(土)
  この日から鶯宿にて滑空
  班訓練。

 同年9月16日(土)
  再度松尾鉱山行きのため
  の注意あり。

 同年9月17日(日)
  午前中元六一部隊で通信
  訓練を受ける。

 同年9月19日(火)
  滑空班は松尾に行かず、
  この日より鶯宿へ。17日
  まで。
  (増田氏は滑空班で、松尾鉱山への動員は前半は経験しておらず、この部分は何人かの同期の者が「動員の項」で記述する)

 ■全校行軍(「四星霜」を基に)

  昭和18年10月30日(土)
  全校行軍。3年生以上は徳田国民学校折り返し28キロ。復路はクラス対抗早駆け競争

   ◇  ◇
  右が「四星霜」の記録であるが、時にわたしたちは3年生。徳田まで14キロを歩き、折り返し点の大きなリンゴ園でリンゴ(紅玉)を食べ放題食べさせていただいたあと、休みもせずにいきなりの早駆け(今で言うロードレース)。

  仙北町あたりでリンゴの酸っぱいゲップがやたらと出て、口の中が泡だらけで苦しんだ。
  クラスで最も遅い者で順位が決まるルールだったから、みんなでビリの者を担いだり推したり必死だった。また途中、上田の踏切で足踏みさせられたり、上級生のあるクラスなどは全員徒歩に切り替え、開き直って堂々と(?)最下位になるなど、あきれたり笑ったり、面白いといえば面白い「行軍」だった。(以上、佐藤洸) 


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