戦時下の盛岡中学   28    増田眞郎(昭和20年卒業生)

六原道場で訓話「日本人とは何か」

  6月29日
  起床後直ちに雄走り。農村部(六原退場後、一家をあげて道場内に移住し、模範部落を作ろうとしている人々の集落で、120戸)方面であった。午前中は「日本人とは何か」の第2日。

  「世をわたるためには、信念をもたねばならぬ。それなくしては、死に直面したとき、困難にのぞんだとき、それを突き抜けることはできない」、あるいはまた「雄叫び(おたけび)」すなわち「天晴れ、あな面白、あな手伸し(たのし)、あな明け(さやけ)、おけ」という道場でつねに唱えられている言葉に触れ、「天晴れからあな明けまでは、神の元であらせられる天照大神と、神の子であるわれわれ各人のいのちが通じたときの喜びの様を表し、おけはその喜びが言動にあふれたものである」と解説された。その後は、夕方まで再び畑の除草であった。

  6月30日
  神社前の行事ののち、朝食前は果樹園の除草。午前中はまず「日本人とは何か」の第3日。「日本人は神の子であると同時にミコトである。しかしそのままではミコトではない。相扶け励んでこそ初めてミコトとなる。スメラミコト(天皇の意)とミコトとは別物ではない。日本人の真の生活は、大君の勅を奉じ、生きることにある。スメラミコトの命のままに生きてこそ、日本人はミコトとなるのである…」。校長先生が来場、視察される。

  7月1日
  夜会が終わってのち、真っ暗な神社の前に集まった。天照大神の御前に整列して、及川先生の話を聞いた。「君たちは、わずかの間であったが、この間に体得した道場精神・日本精神を永久に忘れず、校風を振作し、伝統ある盛中の歴史をますます輝かせ」と結ばれた。

  及川先生の烈々たる訓話に、わたしたちは感動し慟哭した。そして全神経を集中して校歌を合唱した。各班の班長であった人々は「1週間ありがとう、相手をしてくださってありがとう」と、われわれに別れの言葉を述べられた。その謙虚な情のあふれる話ぶりにわたしたちはまた感動した。

  7月2日
  3時40分起床。掃除や毛布の返納をすませて、6時より神社前で退場式がある。「退場後も道場精神をあらゆる方面に発揚して神へ帰一し奉り、天皇に忠誠を尽くさん」という宣誓を行った。

  リュックサックを背負い、御霊拭(みたまぬぐい、手拭である)をつけ、本部前で諸先生への挨拶を終えたのち、長期生の居並ぶ道を、雄叫び(おたけび)も勇ましく退場して行く。


  長期生の「シッカリヤレヨー」に答えて、門のところで「シッカリヤリマース」と絶叫し、六原道場のイヤサカを絶唱して、涙にむせびながら道場をあとにした。10時4分、六原駅発。

  ごく断片的な記録であるから、経験者以外は何のことかよく分からないかもしれない。六原は、当時神道精神に貫かれた道場であり、農場作業を通して、精神鍛練が行われていた。

  天照大神の直系の子孫として、天皇は現つ御神(あきつみかみ)であり、天照大神の崇拝は天皇に対する忠と同一であった。神人合一は天照大神、したがって天皇への帰依であった。これは戦時中の常識であるが、六原においては、それがより感動的に美化され強調された。したがって、わたしたちはその魔術にあって、皆が感涙にむせぶほどの感激をたびたび味わったのであろう。

  畑は大きく、畝は長く、初夏の太陽に照りつけられての除草作業は、全くつらかった。(つづく)


  ■コラム「六原道場での研修」


  六原道場での研修は要するに3年生ともなる小生意気になるので、ここでカツを入れておこうとの目的で行われたものらしい。

  超国家主義的道場であり、朝から晩まで徹底して国家神道の約束事ののっとって行動させられ、例えば朝の体操は「やまとばたらき」と称する奇態なもので、号令も「ヒイ、フウ、ミイ、ヨオ」から「…モモチヨロズウウ」であったし、食前の祈りも「みたまのふゆをうやまいまつる」などと唱えさせられた。

  そして、道場の若い職員らは班長として僕らをしごきにかかる。

  広い広い大豆畑。強い西風が火山灰土の細かい土ぼこりを、汗だらけの顔に容赦なく吹き付け、顔の東側半分に土の吹きだまりを作った。

  向こうがかすんでいる広い畑で、両手を使っての草むしりは私語など許されない。少しでも話し声がすると、すぐ班長が飛んできてどやしつける。

  誰言うとなく「今に見てろ、帰るときに、あの班長のやろう、袋だたきにしてけらあ」の声。ところが班長どもも心得たもので、別れの日、見送りに来て、わたしたちが立ち上がる前に見事なタイミングで「済まなかった。これは仕事なのだ。許してほしい」と頭を下げられてしまった。そうなると、何だか気の毒に思えてしまったり、気勢をそがれて、結局仕返しの儀は中止となった。(この件、増田氏は全く逆の感想をお持ちのようで興味深い)

  なお六原での研修は県下多くの学校が実施したようで、なぜか男子校、女子校が組だった。しかも女子が4年、男子が3年生。わたしらの場合は相方が盛岡市立第一高女(現市立高校)だった。

  宿舎は馬小屋改造の、ノミが大量に発生するところで、川で洗面するという優雅な一面が気に入っていたのだが、何とその上流百メートルほどのところが女学生たちの洗面所になっていたのだった。

  また、朝の長距離駆け足(をばしり)では、次々倒れる女子学生をわたしらが介抱させられたり、…これは身長順に引き出されるので、われらちびっこ組はただうらやむばかりだったり…。しかし、泣き声を上げながら走る女学生の姿にはすさまじさを感じたものだ。(佐藤 洸)


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