わたしが広島の山陽中学から転校して、盛岡中学の自彊寮に入ったのは昭和17年4月、2年生の春だった。
寮(寄宿舎)は渡り廊下で校舎と接続していた。
まず日常生活であるが、寮長さんは荒谷さんという柔道部のキャプテンで、とても静かな人だった。入舎時の説明会では勉強の仕方から便所の使い方(後述)まで事細かに話してくださった。
寄宿舎は上級生が下級生をいじめてかわいそうだからと近所のおばさんから下宿を勧められたりしたが、そんな不安は荒谷さんが一掃してくれたのだった。
わたしは第一寮の1階の部屋に入ったが、室長は4年生の石川さんで、勉強に余念のない人だったが、小鳥をどこかで捕まえて飼ったりするので「トリンコマン」などと言われていた。
同じ並びの部屋に同級の萬藤五郎君がいて何かとアドバイスしてもらい、おかげで平穏な寮生活スターであった。
朝は6時半起床。上半身裸体で校庭に出てワッショイワッショイのかけ声で乾布摩擦、体操、部屋の掃除、それから朝の勉強、7時半に朝食の鐘が鳴って食堂へ。食後半時ほどが一息つける時間だった。
当時は物資不足で靴もなく、素足にゲートルを巻くというスタイルで渡り廊下を走って教室に行くという毎日であった。
寮には「寮歌」があった。
校庭に桜が咲くのは4月23日ごろだった。2年甲組の教室は2階のはずれで、花が手にとれるように見え、何日後かには桜吹雪も見られた。
そのころ校歌練習が放課後に講堂で行われたが、寮では夕食後に寮歌練習があった。これは今流で言えば「しごき」への始まりでもあった。
しかしこの時覚えた寮歌は校歌とともにいまだに忘れてはいないのである。
寮独自の年中行事も多かった。
5月27日海軍記念日、上級生の小笠原さんに連れられて高松の池でボートに乗った時は、葉桜が目にしみてまぶしかった。
試胆会
その第1回が5月ごろ、夜9時すぎから、まず上級生が代わるがわる怪談を聞かせた後、校内で。
2回目は7月初めごろ。墓地を通って横川省三の銅像までのコース。3年生が脅かし役。4、5年生は監督であった。
山登り
4月末、高洞山キャンプ、5月末には姫神山、さらに7月は岩手山だった。
高洞はあまり高い山ではないが、テントや食料などかなりの重量のものを背負っての行軍。
場所を決め、テントを張り、燃料を集め、飯ごう炊さんでの食事。夜更けてキャンプファイヤーを囲んでの歌声。とても楽しかった。
姫神の時はスズランが咲いており、放牧の馬も見られたし、岩手山の時は夏休み直前、好摩駅から夜通し歩いて頂上に着くころちょうど、ご来光少し前だった。昔は新任の先生が必ず同道したものだったそうだ。
このほか弁論大会や寮記念祭などさまざまな行事があったが、ストームはなくなっていた。その他、行事と言えるかどうか「寮雨」「布団蒸し」「脱走」などは存続し、わたしも何度か、夜、高松の池近くのお汁粉屋へ「脱走」させられた。
舎監の先生は3人交代で必ず1人は寮に泊まられた。岡庭、対馬、小野寺の各先生はじめ、多くの先生にお世話になった。 (高崎在住、阿部 功)
◇ ◇
【自彊】自ら努めてやまない、といった意味で、盛岡中学の校訓の一つ。校歌にも「忠実自彊の旗高く」とある。(佐藤洸)
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