戦時下の盛岡中学   30    増田眞郎(昭和20年卒業生)

毎週掲示された郎誦歌

  わたしたちが3年生になった昭和18年度から、毎週月曜日に、その週の朗誦歌というものが示された。それは職員室前の廊下にあった掲示黒板に書かれていたように思うが、はっきり覚えてはいない。しかし、若干の脱落を除いて、発表された大部分の朗誦歌を書き残しているので、参考までにそれらを列挙しておこう。

  まず昭和18年度のものは、次の通りであった。

  5・3 くろがねの的射し人もあるものを つらぬきとほせ大和魂(明治天皇)
  5・10 敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花
  5・24 今宵やもこの月影をしるべにて 仇うちおらん空のおの子は(山本五十六)
  5・31 子等は皆いくさのにはにいではてて 翁やひとり山田もるらむ
  6・7 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂
  6・14 大君に仕えまつれと我を生みし わがたらちねぞたふとかりける
  6・21 西の海寄せくる波も心せよ 海の守れる大和島根ぞ
  7・5 事しげき世にたたぬまに人はみな 学びの道に励めとぞ思ふ(明治天皇)
  7・26 暑しともいはれざりけりにえかえる 水田に立てるしづを思えば(同右)
  9・6  世とともに語り伝えよ国のため 命を捨てし人のいさをを
  9・13 末の世の末の末まで我国は よろづの国に勝れたる国
  9・20 いざ往かむ網も機雷も乗越えて うちて眞珠の玉と砕けむ
  9・27 かきくらすアメリカ人に天つ日の 輝く国の手ぶりみせばや(藤田東湖)
  10・5 かへらじとかねて思へば梓弓 無き数に入る名をぞとどむる(楠木正行)
  11・1 あさみどり澄みわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな
  11・8 靖国の宮にみたまはしづまるも をりをりかへれ母の夢路に
  11・15 君がため命死にきと世の人に 語りつぎてし峯の松風
  11・29 天に日あり地に日本あり大御威稜 さへぎるものは撃ちてし止まむ
  12・6 君が代は巌とともに動かねば 砕けてかへれ沖つ白波
  12・13 旅人の宿せむ野に霜降らば わが子はぐくめ天のたづ群(遣唐使使人母)
  12・20 おのづからあだの心のなびくまで まことのみちをふめやくにたみ
  1・17 一億の心はたぎるあだくにを 撃ちてし止まむ思にもえて(佐々木信綱)
  1・24 大君のしこの御楯と死する身を 思へば軽きわが命かな
  1・31 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂(再出)
  2・7  青海原潮の八百重の八十国に つぎて広めよこの正道を(平田篤胤)
  2・14 国思ふそのまごころのひたすらに 学徒は続く決戦の空
  2・28 今日よりはかへりみなくて大君の 醜の御楯と出で立つわれは
  3・6 すめらぎは神にしますぞすめらぎの 勅としいはばかしこみまつれ
 
  選者が誰であったか、わたしたちには知る由もない。しかし、学校が生活の指針としてこれらの短歌を選び生徒に示したことを思うと、感慨深いものがある。職員も生徒も戦争の真っただ中にあった。

  わたしたちは少年であったから、学校生活を楽しみもしたし、いたづらもした。隣の教室とのあいだの羽目板の破れを利用して、授業中に先生の目を盗んで、隣の教室と通信しあった他愛ない思い出も語り伝えられている。


  しかし、そうした合間合間に、わたしたちは死への道を踏み進む尊さを教えられた。これは学校だけでなく、世の中すべてからそう教えられていたというべきであろう。わたしたちの世代の者は、幸福が人生の目的であることなど、一度も教わったことはなかった。 (つづく)


  ■コラム「自彊寮の生活」

 
   わたしが広島の山陽中学から転校して、盛岡中学の自彊寮に入ったのは昭和17年4月、2年生の春だった。


  寮(寄宿舎)は渡り廊下で校舎と接続していた。

  まず日常生活であるが、寮長さんは荒谷さんという柔道部のキャプテンで、とても静かな人だった。入舎時の説明会では勉強の仕方から便所の使い方(後述)まで事細かに話してくださった。

  寄宿舎は上級生が下級生をいじめてかわいそうだからと近所のおばさんから下宿を勧められたりしたが、そんな不安は荒谷さんが一掃してくれたのだった。

  わたしは第一寮の1階の部屋に入ったが、室長は4年生の石川さんで、勉強に余念のない人だったが、小鳥をどこかで捕まえて飼ったりするので「トリンコマン」などと言われていた。
  同じ並びの部屋に同級の萬藤五郎君がいて何かとアドバイスしてもらい、おかげで平穏な寮生活スターであった。

  朝は6時半起床。上半身裸体で校庭に出てワッショイワッショイのかけ声で乾布摩擦、体操、部屋の掃除、それから朝の勉強、7時半に朝食の鐘が鳴って食堂へ。食後半時ほどが一息つける時間だった。

  当時は物資不足で靴もなく、素足にゲートルを巻くというスタイルで渡り廊下を走って教室に行くという毎日であった。


  寮には「寮歌」があった。

  校庭に桜が咲くのは4月23日ごろだった。2年甲組の教室は2階のはずれで、花が手にとれるように見え、何日後かには桜吹雪も見られた。

  そのころ校歌練習が放課後に講堂で行われたが、寮では夕食後に寮歌練習があった。これは今流で言えば「しごき」への始まりでもあった。


  しかしこの時覚えた寮歌は校歌とともにいまだに忘れてはいないのである。
  寮独自の年中行事も多かった。


  5月27日海軍記念日、上級生の小笠原さんに連れられて高松の池でボートに乗った時は、葉桜が目にしみてまぶしかった。

  試胆会
  その第1回が5月ごろ、夜9時すぎから、まず上級生が代わるがわる怪談を聞かせた後、校内で。

  2回目は7月初めごろ。墓地を通って横川省三の銅像までのコース。3年生が脅かし役。4、5年生は監督であった。

  山登り
  4月末、高洞山キャンプ、5月末には姫神山、さらに7月は岩手山だった。

  高洞はあまり高い山ではないが、テントや食料などかなりの重量のものを背負っての行軍。
  場所を決め、テントを張り、燃料を集め、飯ごう炊さんでの食事。夜更けてキャンプファイヤーを囲んでの歌声。とても楽しかった。

  姫神の時はスズランが咲いており、放牧の馬も見られたし、岩手山の時は夏休み直前、好摩駅から夜通し歩いて頂上に着くころちょうど、ご来光少し前だった。昔は新任の先生が必ず同道したものだったそうだ。

  このほか弁論大会や寮記念祭などさまざまな行事があったが、ストームはなくなっていた。その他、行事と言えるかどうか「寮雨」「布団蒸し」「脱走」などは存続し、わたしも何度か、夜、高松の池近くのお汁粉屋へ「脱走」させられた。

  舎監の先生は3人交代で必ず1人は寮に泊まられた。岡庭、対馬、小野寺の各先生はじめ、多くの先生にお世話になった。 (高崎在住、阿部 功) 

 ◇  ◇
  【自彊】自ら努めてやまない、といった意味で、盛岡中学の校訓の一つ。校歌にも「忠実自彊の旗高く」とある。(佐藤洸)


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