戦時下の盛岡中学   31    増田眞郎(昭和20年卒業生)

米内海軍大将の講演を聴く

  山本五十六大将の一首が選ばれたのは、大将の戦死の報を知らされた次の週であった。18年というと、5月末にはアッツ島守備隊玉砕の報が入っている。玉砕という言葉が、子供心にどんなに崇高に受け取られたか、はかり知れない。

  同期生の多くがその年に予科練や特幹を志願し、第1陣は18年11月29日に入隊のため離盛した。入隊のときには、全校生徒がそろって壯行式を行った。学校長も生徒代表も、入隊者の志をたたえた。わたしも数度壯行の辞を述べたことを覚えている。内容は忘れたが、当時のわたしであれば、多分激越な言葉で友の出陣を祝ったにちがいない。

  このような雰囲気であったから、下って昭和19年4月15日になるが、米内光政大将が来盛されて、3校時に全校で聞いた訓話のことが忘れられない。

  米内さんは、きっとわたしたちを鼓舞激励し、1日も早く戦場に赴くことをすすめる話をされるものとばかり思っていたのに、ゆう然と登壇され、ごく簡単に「一身を国に殉ずる日のくるまで、諸君は急がずあせらず学業にいそしむべきである」と話されて、すぐに壇を降りられた。そのあっけなさは、当日のわたしの日記の記述とは逆に、異様な印象となって今に残っている。

  ちなみに、この偉大な先輩は、わたしたちの1年生のとき、16年5月19日にも来校されて、生徒全員の前で話をされているが、1年生には話の内容が難しくて、分からなかったらしい。皆がよく覚えているのは、講演の最中に激しい地震があって生徒が騒然としたのに、壇上の米内さんはびくとも動かなかったということだけである。

  米内さんが、太平洋戦争を無謀な戦争であると考えられていた偉大な軍人であったことは、戦後になって初めて知ったことであるが、当時はそれを知る由もなく、わたしたちは米内さんはじめ、多くの陸海軍の重要人物を先輩に持っていることを誇りに思っていた。啄木や賢治といった先輩の影は薄く、盛岡中学は軍人によって世に有名であった。

  わたしたちが2年生の年、昭和17年の5月27日に、文部省の合同視察というのがあった。2年生だから、前日まで大掃除などの準備が大変だったこと、当日が雨で予定していた行事が大分変更になって、わたしたちの出番はほとんどなかったことくらいしか印象に残っていない。

  ただ2年の丁組では、視察官が教室に入ってきて「用言とは何か」という質問をしたところ、級長ほか数名が手を挙げ、その中の1人が指されて、大変立派に返答したという。その後の教練の時間に対馬先生から、また体操の時間に宮坂先生から、視察の当日、視学官より次のような講評が行われたことを知らされた。


  一、規律がなっていない。
  二、全国で尻から5番目に駄目な学校だ。
  三、良い先輩を出しているから、さぞかし皆は頑張っているだろうと思ったのに、さほどでもない。

  何も真相は知らなかったから、とにかくがっかりし、しっかりやらねば駄目だと素直に受け止めていたが、今になってその時の様子(90年史108頁)を知ると興味深い。

  当日の講評が教練や体操の時間にのみわたしたちに伝達されて、他の授業のときには、先生方から何も聞かなかったことも特記しておこう。自由を尊ぶ風潮は、ずっと残っていたであろうが、盛中もやはり時代の子であった。わたしたちは戦争へ戦争へと押し流されていった。(つづく)


  ■コラム「厠譚(かわやたん)」

      
  わたしが自彊寮(じきょうりょう)に入ったのは昭和17年4月であった。入る前に説明会があり、詳細なことまでお話があった。

  舎監長の岡庭秀男先生から、お金のことや舎則の説明があってから、続いて寮長の荒谷多喜男さんから日常のことについて細かく説明があり、今でもしっかり記憶しているのは「厠に入って用を足す際、日本の爆撃機のように必ず命中弾を落とし、周りは汚さぬように」とのことであった。

  なにしろ真冬になると、命中弾が着弾するとコチンコチンに凍りついて、上から落ちては次々と付加し、ちょうど鍾乳洞の石筍(せきじゅん)のように日ごと成長するのである。

  そのうちしゃがむとその石筍に触れそうになるから、標的から少しずらそうとするのだが、それがなかなかうまくいかない。汲み取りは雪解けならぬ肥解けまでは来てくれず、そこで、寮長さんも一緒に汲み取り口から太い棒でたたき落とす作業を何回かやらねばならなかった。

  さて、厠に怪談はつきものだが、わが自彊寮も例外でなく、入舎して間もない1回目の試胆会、上級生は下級生を集めて怪談をする。

  夜、丑(うし)三つ時になると厠に幽霊が出るとか、何番目のところは下から手が出るなどとまことしやかに、さも見たように話す。すると、こんな話でも夜小用に行くときは怖がる者が出る。

  ある早朝、厠に通じる廊下が水をこぼしたようにぬれていたことがあった。我慢しきれずに漏らしたものだったろう。

  もちろん、厠へ行かずに「窓から雨」という方法もなくはないが、これは最上級生にしか認められない。特に厳寒期にこの窓の雨の跡が目についたものだ。

  厠には入り口に下駄が十足ほど並んでいたが、鼻緒が切れて2、3足しかないことがあった。ある朝、あまりに下駄の数が少ないので、起床時間前に鼻緒を直していたことがある。

  ふと後ろから「阿部、何をしている」との声に振り返ってみたら舎監の田口辰蔵教官が軍服姿で立っている。「あまり下駄が少ないので、直していました」と返事すると、「ご苦労さん」と言って帰られた。

  朝礼の時、舎監が「今朝、阿部が厠の下駄の切れた鼻緒を直していたが、集団生活にはこのような心がけが大切である」と、お褒めの言葉をいただいたのだった。(高崎在住、 阿部 功) 


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