戦時下の盛岡中学   32    増田眞郎(昭和20年卒業生)

許されなかったバンカラスタイル

  先にあげた朗誦歌とともに、週訓というものも示されていた。責務の完遂・朝礼の厳粛・正しき敬礼・整理整頓・態度の厳正・緊張と敏捷・服装の整正・時間の活用・教室内にて姿勢を正しくすべし・集合の敏速・交通道徳の厳守などがその例で、こちらの方は今とさして変わりはない。

  この中に服装のことがあるように、それ以前の盛中にあったばんからな風俗というものは、18年ごろには全く許されていなかったと思う。登校のときゲートルを巻くことは、わたしたちの入学以前から行われていたことであったが、帽子は通常の黒の学生帽でよかった。

  3年生のころには、ほとんどの者がカーキ色(国防色といった)の戦闘帽になっているが、当時の写真の中に黒の学生帽も見られるので、学生帽が禁止されてはいなかったのであろう。

  その後のことはよく覚えていないが、いつごろからか、黒の学生帽は姿を消している。学生帽が許されていたころでも、破いたものは駄目であった。

  代々伝えられている「中」や「M」の字を書いて長い帯をつけた肩かばんも、2年生のとき、昭和17年までは見受けたが、その後、姿を消した。1・2年生のとき、そういうかばんを持って来ていると、上級生から生意気だと説教されていたし、わたしたちが高学年になったときは使えない状態だったように思える。

  洋服に関しては、特に制服を定めてみても、物資不足で手に入らなかったので、中学生らしさを失わないものであれば認められていたと思う。したがって、黒の詰襟の学生服を着ている者もあったが、次第に折襟のカーキ色の学生服に変わっていった。

  衣服の購入のためには、衣料切符が必要であった。靴も貴重品で、学校で購入切符の抽選の行われることがあった。ただし文数までは勝手ができず、当たって買ってもブカブカのことがあった。

  ただ編上げだったから、抜け落ちることはなかった。17年5月に切符で買った靴の値段が27円22銭とわたしは記録している。

  靴はその後ズック製のカーキ色の編上げしか手に入らなくなった。洋服と同じくスフ混じりで、すぐに破れた。したがって靴は教練用にとっておき、通学は下駄ばきのことが多かった。下駄ばきの登校はずっと許されていたように思う。

  16年の9月8日より、服の胸に名札を付けることになった。白いセルロイド製で、姓のみを記した。後に勤労動員に行くようになって、氏名のほか血液型まで記入されている詳しい名札を布で作って、胸に縫いつけていた。

  登校のときは、正門を入ってすぐに、左手にある奉安殿に脱帽最敬礼を行ってから、学校に入った。下校のときは、正門を出る前に同じことを行った。

  幼い時から天皇陛下は神であると教えられ、それに何らの疑問も持っていなかったから、御真影(天皇陛下の肖像写真)や勅語の納めてある奉安殿にぬかづくことを忘れることはなかった。

  校舎内は土足禁止であった。冬を除くと、はだしでいたと思う。休み時間にははだしで校庭に出たりするので、柔道場のそばにある井戸は、足を洗ったり、水を飲んだりする生徒が、いつも群がっていた。清掃用の水もここからバケツで運んだ。(つづく)


  ■コラム「盛中時代回想」

  盛岡中学生徒としての後半は、太平洋戦争もたけなわとなり、あの白堊の学舎で友と机を並べて学ぶことも日ごとに少なくなり、勤労奉仕や動員に狩り出されることが多くなった。

  近くは修道院隣接の畑での耕作、ウルイなどの山菜採り、冬の観武ケ原でのウサギ狩り、ストーブ用のまき運び、遠くは水分村分宿の稲刈り奉仕、雫石町近くでの暗渠(あんきょ)排水作業。

  友がマムシを捕らえて皮をむいて見せたのに驚いたり。
  そして松尾鉱山へは褐鉄鉱や硫化鉄鉱掘りの作業に宿泊で参加し、炎天下の労働は辛かったが、白米のどんぶり飯に食欲を満足させたものの、夜になると南京虫にやられ、身体に大きな斑点ができて皆かゆがって大変だった。

  でも作業をしながら植物の化石を見つけたり楽しい時間もあった。

  辛い作業の合間に休日には藤七温泉から茶臼岳を経由して八幡平頂上〜の行軍でもあった。最近、八幡平を訪れてみて、あの東洋一の鉱山の面影はなく、ここで青春の一ページを過ごしたのかと、懐かしさとともに、栄枯盛衰の人の世をしみじみ感じた。

  神奈川県平塚への動員は4年生の時だった。ここでの作業は、当時世界に冠たる「零戦」よりさらに高性能の「疾風(はやて)」という戦闘機のプロペラを電気鉋(かんな)で削ることだった。

  花水川河口に近い海岸に、分譲住宅のような三間(みま)の家に分宿し、工場の往復には軍歌を歌い、冬でも火の気のない部屋の布団にもぐってしばらくは寒くて眠れなかった思い出。日曜日、先生に無断で友と3人で鎌倉見物をしたこと。初めての鎌倉見物はよかったが、空襲警報のサイレンがいつ鳴るかとビクビクしていた思い出。

  記憶は定かでないが、宿舎では確か熊谷昭三君、千葉敏夫君、別室に山本敬郎君、大信田敞三君、もう一間に小田久雄君、工藤信君だったと思う。

  鎌倉行きを提案したのはこの中のだれだったろうか。
  八幡宮の壮麗さには皆感嘆。大銀杏の大きさに圧倒され、護良親王が幽閉された土牢のことは特に鮮明に覚えている。

  いずれこっそり無断で見物に出かけたことははっきりしている。(盛中六〇会東京支部刊「思い出の記」) (鎗田元和)


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