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動員で平塚へ
1・2年のときは大分悪さもしたが、3・4年になると、わたしたちの学年は、むしろ従順で規律正しい学年であったように思う。下級生の人々がわたしたちの学年をどう見ていたかは知らない。それに、最後まで上級生がいたので、わたしたちが先頭に立って何かをしたという経験を持たずに終わってしまった。
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最後に、再び朗誦歌に触れよう。これらはわたしたちが4年生の1学期、昭和19年度の7月までに、全校生徒に示されたものである。
5・8 みやま木のその 梢とも見えざりし 桜は花にあらはれにけり
5・15 天の原照る日に近き富士の嶺に 今も昔の雪は残れり
5・22 あさみどり澄みわたりたる大空の 広きをおのが心ともがな(再出)
5・29 思ふことつらぬかずして止まぬこそ やまとおのこの心なりけれ
6・5 大御田の御なわもひぢもかきたれて とるや早苗はわが君のため
6・19 かくすればかくなるものと知りながら やむに止まれぬやまとだましひ
6・26 みつみつし久米の子等が垣本に植えしは
じかみ 口ひびくわれは
忘れじ撃ちてし止まむ
7・3 しづたまき数な
らぬ身も時を得て 君の
みために死なむとぞ思ふ
7・10 我が胸のもゆる
心に比ぶれば 煙はうす
し桜島山
19年度は18年度よりも戦局は急であった。しかし、朗誦歌の選び方はむしろ落着きを示している。花どき・田植えどきなど、その季節に即した歌が含まれているのが興味深い。選者が代わったのであろうか、それとも危機に慣れたのであろうか。深まりゆく危機感は、逆に心の安定を指向するのかもしれない。
この時以降、わたしたちは勤労動員のため、学校を離れた。
14、平塚動員と卒業
盛岡を遠く離れて600キロ、神奈川県平塚市への勤労動員は、在学中の6カ月、卒業後の3カ月合計9カ月にわたるものであった。
期間・内容からみて、それは本格的な勤労動員であったし、一同が寝食をともにし、油にまみれて働き続けたそれらの日々の思い出は、わたしたちの中学時代4年間が、その一時期に凝縮しているとの錯覚に陥る程の強い印象となって、わたしたちの脳裏を去らない。
動員先の日本国際航空工業株式会社平塚製作所は、当時日本陸軍の航空機生産の中心であった中島飛行機製作所の系列工場で、軍需工場として皇国第1816工場と呼ばれ、陸軍の監督下に置かれていた。工場には佐官級の陸軍将校が監督官として赴任しており、在勤所長といって、所長と同格にみえた。
この工場の当時の生産品は、陸軍の四式戦闘機、略称キ84のプロペラと、兵員輸送あるいは奇襲作戦に使うのであろうか、その目的が定かでない大型滑空機(グライダー)であった。
すでにわたしたちより3カ月早く、7月にこの工場に動員されていた1級上の当時の5年生は、グライダーの生産に携わっていたが、わたしたちの学年は、全員プロペラの生産に当たることになった。
キ84は、その後、翌昭和20年4月に「疾風(はやて)」の愛称で新聞紙上に公表されるまでは、一般人には知らされていない秘密機であった。しかし陸軍部内では、その当時生産されていたどの戦闘機をも上回る高性能が、大東亜戦争に勝利をもたらすものと期待されて、大東亜決戦機と呼ばれていたとのことである。千八百数十馬力のエンジンに、4枚羽根のプロペラが装備されていることなど、当時の飛行機好きの少年からすれば、憧れの戦闘機であった。 (つづく)
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