戦時下の盛岡中学   35    増田眞郎(昭和20年卒業生)

うわさの戦闘機は故障がち

  現在入手できる資料によると、この戦闘機は最大速度毎時624キロ、航続距離1600キロ、上昇力高度5千メートルまで6分26秒、実用上昇限度1万2400メートル等であった。終戦までに3500機前後生産されたと言われ、南方戦線にも送られたが、既に敗色の濃い時期であったため、十分に活躍の折がなかったという。

     
   
 
 


  わたしたちが動員中にもそのうわさが流れてきて耳に入ったが、疾風は脚が弱く、故障が起こって事故が多かったという。疾風が配備されていた東京成増の航空隊に、同じく勤労動員で出動した経験をもつわたしの現在の職場の同僚からも、その様を目撃した様子を聞かされた。

  脚が出ないので何度も急降下を繰り返し、急上昇に移るときの遠心力を利用して脚を出そうとしたが成功せず、結局胴体着陸をした。胴体は不思議に壊れなかったが、プロペラは4枚とも無残に曲がってしまった由である。

  またこの同僚からは、B29の迎撃に飛び立ったが、機関砲を1発も撃つことができずに舞い戻ってきた疾風の話も聞いた。操縦者は降りるなり整備兵を殴りつけたが、地上で引き金をひくと、機関砲は異常なく弾丸を発射する。問題は整備不良ではなかった。

  その後の調査でやっと分かったことが、1万メートル前後の高空に上がると、絶縁材料に使われていたベークライトが絶縁破壊を起こし、電気系統が正常に作動しなくなるということであった。撃墜したB29を使って、アメリカではどのようにそれに対処しているのかを調べて分かったことが、シリコンの使用ということであったそうである。


  疾風は敗戦とともに失われたが、南方戦線で米軍に接収されたうちの1機が、永く飛行可能の状態で米国国内で保存されていた。そしてそれを野崎産業社長の後閑盛正氏が買い受けて、同機は戦後30年をへて日本に戻った。

  その年の10月、埼玉県入間市の航空自衛隊基地で行われた航空ショーで、わたしはそれが爆音をとどろかせて飛ぶのを見た。

  そして「疾風が飛んでいる」の声に、プロペラ削りの手を休めて、急いで工場の外に飛びだして機影を追った、あの平塚における少年の日々を、改めて懐かしく思い出さざるをえなかった。
 
  平塚への動員がいつ決定され、わたしたち生徒に伝達されたかは記録がない。しかし8月下旬、松尾鉱山への動員より下山帰校した後であったようである。

  10月1日に平塚動員に関する諸注意を受けた。5日が荷物の発送日と指定され、それまでは登校せずに準備期間にあてられた。荷物は各自が盛岡駅まで運んだ。

  10月6日は、朝定刻に登校し、われわれのための壯行式が行われ、下級生たちから送られた。その後いったん帰宅してから出発の用意をして、午後2時半より行われる県の壯行式に出るために集まった。場所は教育会館内の講堂であった。

  他校の動員生徒も一緒だったが、どこの学校であったか記録がない。わたしは動員生徒を代表して答辞を述べ、またそれを3時過ぎの地方ニュースで放送するために、すぐに盛岡放送局のスタジオまで、局の自転車で直行させられた。

  当時は、手軽な録音機がなかったので、アナウンサーの話に続けて、式場と同じ調子でスタジオ内でマイクを前に答辞を再現しなければならなかった。謝礼に鉛筆を3本もらい、局の自転車を再び借りて、駅に急いだ。わたしの手荷物は友だちが運んでくれていた。

  わたしたちの乗った列車は、午後4時39分に盛岡駅を離れた。

  列車は特に貸切りではないため、大変に混雑し、よく眠れるような状態ではなかった。上野には、翌朝6時50分に到着した。

  この日の南関東は、強い風雨が吹き荒れていた。動員初日は松尾鉱山のときと同じに、またも雨との闘いであった。省線電車(いまのJR線電車)に分乗して東京駅で降り、雨の中を宮城前まで歩いて、遙拝した。傘を壊した者もいた。

  9時48分東京発。平塚に到着後、その足で工場に行き、茶の接待を受けた。その後、夕食を工場の食堂でとり、やはり工場で入浴をして、再び雨中を歩いて宿舎に向かった。皆ずぶぬれであった。

  工場は平塚市の東部、東海道(現在の国道1号線)から北へ約1キロ入ったところにあり、海軍の火薬敞と向かいあわせであった。工場の東側は相模川に近かった。それに対して、宿舎は平塚市の西南端に位置し、その西は花水川をへだてて大磯につながり、また南は松林を過ぎると相模湾であった。工場と宿舎との距離は4キロ強、このあと9カ月、毎日のように往復8キロ強の道を歩いたわけである。 (つづく)


■太平洋戦に使用した日本陸軍戦闘機の比較表

機種

 

全幅

 

 

全長

 

全高

 

最高速度q/h

 

プロペラ枚数

97戦

11.31m

7.53m
3.25m
470
2

1式戦はやぶさ

 

11.44m
8.83m
3.09m
491
2.3
2式戦しょうき
9.45m
8.85m
3.33m
580
3
3式戦ひえん
12.00m
8.74m
3.75m
592
3
4式戦はやて
11.24m
9.92m
3.39m
624
4

機体aィ「97戦」キー27.1式戦「隼」キー43、2式戦「鍾馗」キー44、3式戦「飛燕」キー61

中島 4式戦闘機「疾風(はやて)」(機体番号キー84)諸元
エンジン:中島:ハー45 空冷2重星形18気筒 1825馬力
機体重量:自重2660キログラム 総重量3613キログラム(その他上表)
上昇限度:11.000メートル
武装:12.7ミリメートル銃×1 20ミリメートル砲×2
採用:19年(皇紀2604年)

○式――○の中の数字は、採用年、いわゆる皇紀の最終桁を取ったもの。例えば海軍の「零戦」は皇紀2600年つまり昭和15年採用となる。「5式戦」というんは、昭和20年採用の戦闘機で、3式戦のエンジンを空冷にしたものであり、B−29迎撃用に、上昇速度を速めたといわれるが、ほとんど活躍していない。

プロペラの枚数増は、ペラの回転を速めることにより先端速度が音速以上にならにように、半径を減らし、枚数で推進力を補ったものです。


  一言申し上げます。
  わたしどもの勤労動員は、平塚行きの前に、昭和19年7月から約3カ月、松尾鉱山動員がありましたが、筆者の増田眞郎氏は、その期間、滑空訓練の方に回されていたため、松尾関係の記録も記憶もなく、したがって記述もありません。
  そこで時期的には前後しますが、松尾鉱山動員についての「証人」として、同期生数名によってその体験記を、後日、これに付け加える予定ですので、ご期待ください。(世話係  佐藤洸)


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