戦時下の盛岡中学   36    増田眞郎(昭和20年卒業生)

その名は盛中報国隊

 「平塚市西海岸日航住宅盛中報国隊第二中隊」
  これがわたしたちに与えられた住所である。第一中隊は、1級上の5年生である。宿舎は今様にいえば、木造3Kの平屋建てからなる団地であった。

     
   
     


  各戸は、大体6畳2間、4畳半、台所、便所からなり、敷地はゆとりがあった。海岸に近いため土地は砂地で、隣家との境界らしいものは特になかった。

  この団地は、元来平塚市が市営住宅として建てたものを、日本国際航空が借りるかどうかして、動員学徒の宿舎にあてていたらしい。ずいぶん大きな団地であった。一般の人々も入っていたが、わたしたちのほか、先着の5年生はもとより、盛岡商業など他校の生徒もここにいた。宮城県の角田中学、山形県の新庄中学の生徒も、同じ工場に動員されて働いていたから、この団地のどこかを宿舎にしていたに違いない。

  宿舎はまた花水寮ともよばれていた。これは日本国際航空がつけた名前であろう。

  わたしたち4年生は、その東北隅の一群の家々に入ったが、何戸に分宿したかは記録していない。時により変動はあったが、1戸につき6名から8名が入っていたように思う。なお1戸は職員室として、先生方の宿舎になっていた。

  各戸とも台所は土間のままで、屋内で使用できる火気は無かったし、冬でも暖房用を含めて火気の使用は一切禁止された。電気ヒーターなども当時は無かった。一応、備品として布団は簡単なものがあったが、自分の家から布団は持ってきていた。

  到着してからの数日は、雨でぬれた荷物や布団を乾かすのに手間がかかった。


  工場での生活は、10月8日の入所式から始まった。10日に仕事の割当が決まり、われわれ4年生は、キ八四のプロペラはねの製作工場に配置された。そこは第一工作係とよばれていた。


  プロペラはねの製作は、ジュラルミンをはねの概形に成形・焼入れした素材の加工であった。工程の解説を、見習い期間中の10月13日に聞いているが、その概要をその後の見聞をもとにしてしるすと、次のようである。

  初めの工程は芯出しとけがきである。根元と先端を切り落としてセンターを決め、根元を旋盤で円柱状に加工する。次いではねの前・後縁の面取りをして、翼面を削るための型ゲージを当てる位置をけがく。

  次の工程は翼面の切削で、その初めは荒削りである。荒削り段階の削りしろは5ミリ程度であったと記憶している。荒削りを終えたプロペラは、再び旋盤にかけられ、ねじ切り等将来プロペラの殻にはめ込むはねの根元部分の加工が行われ、再び中間仕上げとよばれる切削の第二工程にまわされる。切削工程がこれで終わりであったか、もう一工程あったかは定かでないが、とに角カッターによって到達できる最終的な精度までの切削が行われる。

  切削工程を終えたはねは、幅取りという工程で、はねの前・後縁の仕上げを行い、次にやすり仕上げの工程にまわされて、そこではねの全面が仕上げられる。

  次いでバランスという工程で、平衡器にかけて、はねの目方やバランスが測定され、調整される。目方は根元にあけてある穴を深くしたり、逆に鉛をつめたりして、基準値に合わせられる。

  その後、研磨・塗装・再びバランスの工程を経て、1枚のはねが完成する。
  このようにして作られたはね4枚と、別棟の工場で作られているプロペラの殻の部分とを組み合わせて、4枚はねのプロペラができあがる。

  組み立てられたプロペラは、試運転場において実際に発動機に装着されて、回転検査が行われ、合格して初めて完成品となる。 (つづく)


  ■コラム「平塚動員の思い出」

  宿舎から工場までの道は、近ごろ大学駅伝でテレビに出て来る。特に花水川は、初め聞いた時は「鼻水」と覚えていて、汚いなと思った記憶があり、テレビに出ると懐かしい。

  大磯は2、3人で芋の買い出しに通ったが、、そのときは水上飛行艇が湾に大きな姿を浮かべていた。あれは一式大艇だったろうと今では思っている。

  ラボー班の、キ八四(疾風)のプロペラ削りはずいぶん苦労した。今にして思うと、削り代20ミリもある古河製は納入段階で不良品にすべきものだったが、その点、神戸製鋼のものは上皮を剥(は)ぐだけでゲージの寸法に合ったものだ。

  ラボー器の良否もかなり能率に影響し、カッターの刃に問題があったと思っていたが今思えば軸受けのボールベアリングの不良だったようだ。

  工具室に持っていっても直せなかった。振動の不規則があった。

  宿舎での同室には藤原、熱田、吉田、金山、久慈の5人とわたし。
  家から送ってくる物が楽しみだった。中でも藤原君のサクラだけの蜂蜜は初めてなめたこともあり、記憶は鮮烈だった。その香りはサクラの花、色も白っぽいサクラ色、甘さはたとえようもないものだった。

  また金山君は、イカのニンニク入りの煮物。どちらも初めて口にするもので、とにかくうまかったが、特にニンニクの印象は強かった。

  ところで、今も思い出せないのが、風呂のことだ。浴場の印象が全くない。それにかみそりを使った覚えもない。誰も持っていなかったように思う。ヒゲが生えなかったのだろうか。

  みんなはどうだったろう。

  ここで瀬川経郎先生のことに触れておこう。

  工場から帰って、すぐに職員室前で先生のお話を聞き、そして各自の自室に入るのを日課としていたのだが、ある日、そのお話の最中に私語をしていたということで、該当者は職員室前に残され立たされた。

  そのあと先生も自室に入って寝たが、ふと立たせたままだったことを思いだし、慌てて戻って帰室させたというのだった。

  あの時は全く申し訳なかったと、そして当時の生徒はまじめで我慢強く純情だったなあ、と後日しみじみ述懐しておられた。

  動員中、歌といえば軍歌だけが、外に聞こえてもいい歌だったが、そんな中で「北上夜曲」が柿崎君によって伝えられ、隠然として流行した。

  家に帰りたい思いは誰にもあったが、盛岡が目の前に見えるような歌詞とメロディが、みんなの心を癒しながら静かに流行していったのだった。

  もちろんこの歌はラジオでもレコードでも街の中でも全く歌われていなかったことは帰郷後に家人から聞いたことである。(川守田 進)


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