戦時下の盛岡中学   38    増田眞郎(昭和20年卒業生)

削りやすかった神戸製鋼材

 わたしたちが、わたしたちの手でプロペラの生産を始めたのは、10月17日からである。作業衣とエプロンとが支給されていたが、どちらもすぐに油で真っ黒になった。ラボー班では、さらにジュラルミンの切屑がポケットの中にまで入り込んだ。

  初めのうちは、一つの作業台に2、3人が割り当てられ交代で削った。ラボー班には、わたしたちより早くから、山形県の新庄中学校の5年生が入っており、10月下旬よりその人たちの2直制、すなわち昼夜2交替勤務が始まった。そのころから作業台に空きができて、1人1作業台でわたしたちも働くことになった。

  プロペラの切削は、人の削るのを見て想像しているよりもずっと難しかったが、2週間くらいのうちには、機械の故障さえなければ、1日に1本削れるようになった。

  問題はむしろこの故障との闘いであった。故障の発生はごく日常的であったため、当初の30〜40日は故障修理に悩まされ続けた。モーター自身の故障もあったし、フレキシブル・シャフトの切断や磨耗による取り替えなども多かった。切削のためには相当の力がかかっているはずで、モーターやシャフトには無理がかかっていたのであろう。

  シャフトのモーターへの接合部分が円柱状であったこともトラブルの種であった。シャフトの端が接合部にきっちりはまるように、グラインダーでうまく削って差し込み、袋ナットできつく締めつけても、シャフトはじきにスリップをおこして、始末が悪かった。

  シャフトの交換のため、始終ナットを緩めたり締めたりするので、ナットの角がすり減って、スパナーがかからなくなり往生した。ナットやネジ類を交換しようとしても、一度ではまるものはまず無く、規格の不統一や品質の悪さに悩まされた。スパナーなどの工具類も不足がちであった。

  カッターの粗悪にも悩まされた。歯立てはそれ専従の工員がいて、そこに持っていって頼むのだが、カッターの材質のほかに、人の悪い人間も多くて、研いでも一向に切れるようにならないことも多かった。

  したがって、削りやすい素材を選ぶと楽であった。神戸製鋼製の素材は削りやすかった。それは神戸材と呼ばれていた。一方、古河材と呼ばれている素材があった。これは古河電工製を指していたのであろうか。こちらの方は分厚いし、妙に固かった。このようなことも次第に分かるようになってきていた。

  職場は組・班に組織され、組長・班長(伍長ともいった)があって、その指揮下にわたしたち動員学徒も入っていた。班長は職人であったが、話の分かる人たちであった。工員もかなり働いていたが、岩手とは全く違う風土で育った若干与太ったあんちゃん風の人たちとうまくやっていくことも、工場における生活の智恵であったろう。

  1日の生活は、午前5時20分の起床から始まる。洗面を済ませ、作業服を着て、職員室前の道路に整列、点呼ののち4列縦隊に隊伍を整えて工場に行く。

  工場に着くと、食堂に行き朝食をとる。作業開始は8時ごろであったろうか。10時ごろに小休憩があった。12時昼食。午後には3時から20分間の休憩があり、このときは食堂で食べ物がもらえた。

  作業終了は4時という時期もあったが、4時30分くらいだったと思う。夕食を再び工場の食堂でとって、日によっては入浴をし、再び隊伍を整えて、宿舎に帰った。

  入浴はそれほど頻繁ではなかった。入浴をした日の帰寮は7時ころだった。帰寮後は自由時間であったが、一定の時間に点呼があった。一同職員室前に集合して、先生から諸注意・訓話・時局ニュースの伝達などを受けた。

  新聞・ラジオ等は各戸になかったので、これが唯一の情報源であった。消灯は9時であったが、通常延灯といって10時までの延長が許されていた。点呼の遅刻、その他良からぬ行動に対する罰として、延灯禁止というのがあった。(つづく)


  ■コラム「校外活動の思い出など」

  水分村の稲刈り奉仕は楽しいものだった。枕投げこそしなかったが、枕並べてのおしゃべりが楽しい。宿の嫁さんは、いつ寝ていつ起きるのか分からぬほど良く働くと思ったものだった。

  あとでわれわれのうわさを聞いたら、前に来た農学校の生徒は良く働いたとか。
  まあ、あちらは玄人、こちらは素人。比較にはならないでしょう。

  ◇六原青年道場での訓練
  馬小屋を改良した宿舎にみんなで寝たが、朝早くからの訓練で、それが完全に神道の世界。班長のやりかたはちょうど海軍の班長みたいなしごき方に似ていると思った。
  苦しいことは特になかった。ただ飯が大豆入りで薄塩なのはうまい思ったが量が少なく、水を飲んで満腹させた気がする。あの時の歌が頭に残っている。
 
  北海の果て樺太の
  斧鉞(ふえつ)入らざる森深く
  北斗輝く蝦夷の地に
  未墾の荒野我を待つ
 
  これを「未婚の乙女我を待つ」などと替え歌にして喜んだものだ。
  旋律は出てくるが楽譜が書けない。
  戦後は県立の農業大学校になり、なんでもわれらの同期の者(農専出身の県職員)が校長になったという話を聞いたことがある。 (川守田 進)


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