戦時下の盛岡中学   39    増田眞郎(昭和20年卒業生)

副食はみがきにしん

 11月6日からは起床が10分遅く、5時半になった。12月の半ばには6時になっている。その後、2月15日からは5時40分、しかしさらにそのあとどう変わっていったのかは不明である。起床はラッパによっていた時期もあるが、あとは日直が声で起床をかけて歩いた。

  昼休みは1時間あったと思うが、はっきりした記録がない。「昼休みに体操をすることになり、また自由時間が減ってしまう(10月24日)」との記録があるが、それがたいして記憶に残っていないということは、長続きしなかったからだろうか。

  午後3時の間食について「今までは定食だったが、今日から芋二つになる(12月15日)」とあるが、その他これに関する記録はない。芋をもらった記憶は鮮明である。

  食堂における食事は、食券と引き替えであった。もらった食券が1枚1枚減っていくのを、いつか故郷に帰ることのできる日の近づくしるしとして受け止めていたことを思い出す。

  食事は木製の弁当箱に主食・副食を入れて渡された。主食は米に豆や海草等がたきこまれており、米だけのことはなかった。副食にはみがきにしんばかりがよく出ていたことを覚えているが、工場で毎日食べた3食の内容については全く記録しておらず、記憶も薄れてしまった。

  食べ盛りの年齢であったのに、主食・副食ともその量は少なく、粗末なものであったことだけは確かである。よく噛んで食べよ、という先生からの注意があった。

  実際にそれを励行すると体重の減少を防ぐことができたが、多くの者はやせてしまった。いずれにせよ、朝起きて4キロ強を歩いて後朝食を食べ、終日働いて、夕食を食べてからまた4キロ強を歩いて後宿舎に着いていたわけで、よくもそのような生活に耐えていたものであることを痛感する。

  月曜日の朝には、工場で総合朝礼が行われた。訓示や表彰などの行われるのが常であった。所長の言動は不遜(そん)で好感が持てなかった。随分いろいろの学校が来ていて、盛中・盛商・さきにあげた山形県の新庄中学・宮城県の角田中学、また平塚近在の女学校もあった。

  当時の中学生にとって、女学生と一緒の朝礼などというものは、こういう機会にしかなかったが、遠くに並んでいるのが見えるという、ただそれだけのことであった。

  12月末まで、第5水曜を除いて、水曜日は公休日であった。公休日の起床は6時で、たびたび全員浜辺に集合して体操を行った。公休日は食事当番に当たらなければ呑気であった。

  食事当番は朝・昼・夕食それぞれ2名ずつで、リヤカーを引いて、工場の食堂に全員分の食事を取りに行く当番である。朝食当番に当たった者は、真冬でも5時に起きてリヤカーを引いて寮を出た。

  工場に着いて食事を受け取るころはまだ暗く、帰路途中で夜が明けた。公休日の午前中には、内務検査と称して、各戸内の清掃・整理・整頓が先生によって点検された。それが終わるとのんびりしていた。友だちと町に出ることもあった。毎月24円の報償金が支払われ、10円が現金で支給され、残額は貯金されていた。

  町に出ても、飲食店はトコロ天を売っている店があったくらいで何もなく、本屋で乏しい種類の中からたまに本を買うくらいが金の使い道であった。貯金されていた分の貯金通帳は、後に退所のときに手渡された。

  浜辺は公休日のほかにもたびたび出掛けたところである。寮を南に行くとやがて松林となり、その南に東西に長い舗装道路が延びていた。当時は軍用道路といっていたが、現在の国道134号線であろう。
  その道路を越すと浜辺であり、相模湾が広がっていた。快晴の朝、洋上はるかに日が昇り、箱根の連山が朝日に映え、大島・江ノ島を望見できることもあった。浜辺での飯ごう炊さん、海辺の散策など、岩手の中でも海の遠い土地から来た者にとって、これまでにない経験であった。大磯・二宮まで足をのばすこともあった。浜辺には高射砲陣地もあったが、さびれていた。 (つづく)


  ■コラム「校外活動の思い出など」

 ■米内大将来校の記憶
     
  西控え所に全校生徒が整列してお待ちするところに、若い海軍士官1人を連れて米内さんはあの大きな体を現した。

  そのころは佐官級の在郷軍人が時局講演に時々来て勝ち戦の戦況やら今後の作戦予想など話していったものだから、米内さんは大将であり、元内閣総理大臣ならもっと戦争の詳しい話が聞けると期待していたところ、「学生である諸君は戦争や政治にこだわらず、現在習っている科目を、英語でも国漢でも、しっかり勉強しなさい」とのこと。

  英語は敵性語だからと、無くなるといううわさもある中でもあったので、勉強嫌いのわたしなどはがっかりしたものだ。

  今なら、元首相が来るとなったら、県や市のお役人や偉い人が車でぞろぞろ送迎したろうに、あの時は誰も付いてこなかった。

  黄門様のようにお忍びだったのだろうか。

  ■大先輩の寄付
 
  郷古潔(三菱重工会長)と鹿島精一(鹿島組社長)の2人が学校に5万円を寄付されたということがあった。

  当時は家1軒100円で建つと言われ、中学校の授業料は5円。現在孫の高校の学費が2万5千円。

  5千倍と考えると、ざっと2億5千万円の寄付ということになるが、これを大きいと思うか小さいと思うか、はて。(川守田 進)


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