戦時下の盛岡中学   41    増田眞郎(昭和20年卒業生)

紀元節に汁粉と牛乳

 工場は、公休日のほか、祭日も休みであった。年末・年始は、大みそかと元日の2日間が休みであった。

  元日には、6時に起床ラッパが鳴り、海岸に出て四方拝の拝賀式を行った。そして帰寮してから、前夜会社から配給になった折詰めと餅を各戸で食べた。この日は餅を焼くために、室内での炭火の使用が許可されていたように覚えている。家を離れて元日を迎えることは、おそらく大多数の者にとって、初めての経験であったろう。 平塚の冬は、盛岡に比べればしのぎやすいとはいうものの、宿舎では寒中でも火気を使えなかったので、大変に寒かった。工場から帰ると、あとは布団にもぐりこんで、体温で暖をとるよりほかなかった。

  また朝は工場に出ると、プロペラといいラボーといい、あらゆる金属が冷えきっていて、それを持つ手をこごえさせた。なるべく早く作業を始めて、切削の熱で暖かくなるより方法はなかった。

  食糧は、軍需工場、中でも飛行機工場は優遇されていたというが、全国的に食糧が欠乏していたから、いまから考えれば想像もできない貧しさであった。

  2月11日の紀元節に「汁粉と牛乳が出た」とわたしはわざわざ記録しているが、どちらも当時は貴重で、長いこと口にする機会がなかったのである。

  寮では、誰彼となく郷里から小包が届くと、いり豆とか干し柿などが入っていて、それを分けてもらうのがお互いに楽しみであった。

  あまりその機会はなかったと思うが、社外配給所というものがあって、公休日にそこに行って、配給の南京豆をもらってきて食べたことがある。

  大豆はよく口に入ったが、南京豆は珍しかった。3月中旬から10日間くらい、学校が工面して俵で送ってくれたいり米を使って雑炊を作り、夕方帰寮後に、丼一杯ずつの配給があった。

  米そのものの移送はすでに禁止されていたために、いり米にして送ってくれたのであるが、いり米から作った雑炊は糊のようであった。たまたま平塚に来ていた父兄は、まずくて食べられなかつたと帰盛後の父兄会で報告されたそうだが、わたしたちは腹に入っていくものは何でもうれしかったから、何も言わずに食べていた。

  雑炊作りは、その後も断続的に行われた。毎日防犯当番が2名、交代で寮に残ることになっていたが、雑炊作りは防犯当番の仕事で、午後になると、職員室の近くの屋外に簡単に屋根だけつけてあるかまどに大きな鉄鍋をかけて、雑炊作りをしながら皆の帰寮を待っていた。

  非合法活動としては、寮の北側に広がるさつま芋畑から芋を掘ってくるとか、台所の土間でこっそりと火をたいてみそ汁を作るとか、それらは表には出ないひそかな楽しみであったので、記録はないが、皆にいろいろな記憶があるだろう。

  作業自身がきつく、食糧事情も良くなかったので、健康の維持は大変であった。病気をしてはいけないと思う反面、ほど良い病気になって盛岡に帰れないものかとか、帰れないまでも、少しは休みたいなどということは、誰しもが考えたことであろう。

  脚気と診断されることは一番ありがたく、少しでも身体の具合が悪くなると、その診断をしてもらいたくて、医務室に足を運んだ。実際、病気になって盛岡に帰った者もいたし、治ったからとまた戻ってくる者もいた。
  これは動員の全期間続いていた。寮には寮母さんがいて、病気で工場を休んだときは、寮母さんの作ってくれる食事を食べた。
  公傷のときは公休となってやはり寮にいた。ジュラルミンの切屑を足にさして化膿するという例が多かった。機械で指などを切り落とす事故は、動員期間中幸いにして一つもなかった。病気や公休で何日か寮にいると、こんどは退屈で、工場に出て皆と働いている方がずっとよいと思えた。

  病気で盛岡に帰るほか、陸士・海兵等の進学者も年が明けるといなくなった。人間の出入りは、かなり頻繁であった。先生方は、数箇月ごとに部分的に交代されていた。 (つづく)


  ■コラム「動員と食物考」

 
 勤労奉仕で盛岡近郊の滝沢村、雫石町、水分村に行ったとき、昼食に出される握り飯やもちは、育ち盛りのわたしたちにとっては大変ありがたいものだった。
  さらに勤労動員の名で2回出動した松尾鉱山では、最初、山に着いたその日の夕食は山盛りに近いどんぶり飯、それも白米で、空腹を十分満足させてもらった。
  あの時は「有るところには有るもんだ」と思った。しかし、その白米飯、何日続いたかは忘れた。
  休日の八幡沼行軍(茶臼岳、藤七温泉経由)のときは、山頂到着時刻が12時ごろで、真夏の太陽が中天にあり、八幡沼の水面がキラキラ輝き、沼に沿って雪原があり、友は万年雪と教えてくれた。
  高山に登ったことのないわたしは初めて見る夏の雪だった。そのそばで、鉱山食堂で持たせてくれた握り飯を、たくあんをポリポリかじりながら食べたが、山登りの空きっ腹にはまことにうまかった。しかし、2回目の松尾行きでは、食糧事情がぐんと悪化しており、質、量とも目立って低下していた。(鎗田元和) 


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