戦時下の盛岡中学   44    増田眞郎(昭和20年卒業生)

動員先で応召の先生を見送る

 生産能率を落とすことのないよう、当時動員中の中学生の動員を、卒業後6月まで延長することは、かなり前から知らされていた。ただ、農業専門学校進学者、農業従事者、就職者は動員が解除され、4月2日に帰盛した。

  卒業式当日は作業がなかったが、翌日からは平常通りの作業が開始された。卒業生とはなって、引き続き在学中と同じく先生たちの指導下で、在学中と同じ形の生活を続けた。時折受け取る進学先の上級校からの事務連絡が、わずかに卒業したことを感じさせるものであった。ただ気分的には、先生もわたしたちも、何となく気軽になったことを覚えている。

  卒業式直後のことで特に印象的だったのは、高橋元昭先生の応召である。先生とわたしたちの学年とのかかわり合いは深く、学科の担当は在学中の全学年に及び、また担任も2年生から4年生までの3年間にわたっていた。

  応召の知らせは卒業式のあとにあり、翌日朝、工場の朝礼のあと、工場の神社前で壮行式を行った。「肺腑(はいふ)をえぐられるような先生の話を聞き、校歌などを合唱した」とわたしは記録している。

  盛岡で通学していたころも先生方の応召を送る壮行式は何回かあったが、卒業式の直後、しかも動員先でたまたま先生を送るという状況も重なって、その一部始終がいまだによく思い出される。

  農専進学者らが帰ったあと、何人が平塚に残ったのか、明確な記録がない。しかし、ラボー班が一時期13名になったこと、また防犯当番をして40人分の雑炊作りをしたことなどが、断片的にわたしの記録の中に残っている。

  宿舎も、各戸とも住人が減って、わたしなどは1戸に一人で住んでいた。夜の点呼の際の訓話なども、職員室前の道路ではなく、職員室の中に入って聞いた。

  そのころは小圷先生が平塚におられて、「古事記について」、「維新の志士の仏教観」、「明治・大正・昭和の思想」など、いろいろの話をされている。卒業式時点で健康その他の理由で盛岡にいた者も、前記の動員解除者以外は再び平塚に戻って来たし、また身体を壊して帰盛する者もあり、人員の増減は依然として続いていた。

  4月12日に、キ八四が四式戦闘機「疾風」の名前で、写真入りで新聞紙上に公表された。戦局はいよいよ急で、沖縄本島はすでに米軍により攻撃され、特攻隊が出撃を繰り返していた。

  工場の帰路、全員で映画を見に行くことが何度かあったが、特攻隊出撃の様子を写したニュース映画を見たのもこのころである。

  「幾多の生ける神々をまのあたりに見ることができた」とわたしは記している。またほかの日には、数名の級友の名を記したあと、「これら3年のときの同級生も、いまや時をえて、敵艦にぶつかっているかもしれぬ」と書いている。

  「何事もみな偽りの世の中に、死ぬるばかりぞ誠なりける」という葉隠れの中の一首をひいて、これぞ日本男子の真面目(しんめんもく)と感激するような状況であった。5月2日にドイツ降伏の報が入った。10日には政府が声明を発表し、わが国の決意は不動であるとして国民の戦意の高揚を図った。

  「われわれが戦に敗れるためには、五つの要素がいる。1、人口の減少、2、戦力資源の欠乏、3、食糧の欠乏、4、科学技術の低劣、5、国民士気の退廃。わが国の現下の情勢に照らしてみて、何一つとしてこれに非常に適合しているものはない。人口は戦前とほとんど変わりはない。戦力資源も、松根油・強化木材等を例にとっても、わが共栄圈、狭くはわが国内の資源を活用して、立派にやってのけている。いまだ国内に一人の餓死者も出ていない。科学技術も進歩している。国民の士気に至っては、彼の特攻隊に続いて、1億が真に尽忠の心を持っている。われわれは絶対に不敗なのだ。われわれは絶対に勝つ。これを現在のような情勢にしているのは、戦争指導者の責任である。しかし、われわれは、戦争指導者の責任としてすませることはできない。われわれは、下から盛り上げる力をもって当事者を動かし、困難を打開しなければならないのだ。われわれは学徒である。学徒の学徒たる所以(ゆえん)は、世人にさきがけて万事をなすにある。すべからくわれわれは、あらん限りの力を出して、敢闘しなければならぬ。死力を尽くして、死点に到るまで頑張り抜くのだ。やろう。勝つまでやろう。小さいことにこだわらず、常に大局を見て大きく感じ、そして大きく動こう」

  5月27日の夜の点呼のとき、長沢一馬先生は、わたしたちにこのような話をされている。 (つづく)


  コラム

 ■登校途中の出来事
      
  上田の踏切に、異様な人だかり。直感的に人身事故だなと思い、顔をそむけつつもとうとう見てしまった。
  小雨の朝で、線路には財布が落ちていて、血は見なかったが、空き地に横たえられた死体の下半身はムシロがかけられてあったが顔は丸出しで、髪の毛が目からほおにかけてくっついていて実に気味悪く、おかげでその日一日中飯が食えなかった。八幡の芸妓ということだった。(川守田 進)
  ■わたしも目撃
       
  上田踏切の轢(れき)死体は多くの同級生が見たはずで、わたしもまるで幽霊の絵のような青白い死に顔、水色の着物、踏切に脱ぎそろえられた草履、それらの印象は鮮烈に残っているし、わたしも同様にあの日は食事がのどを通らなかった。(佐藤 洸)
 


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