戦時下の盛岡中学   45    増田眞郎(昭和20年卒業生)

B29の大群で埋まった空

 空襲警報の発令は、4月に4回、5月に8回、6月に2回を記録している。

  そのうち、4月15日夜の空襲の際は、B29がいつもの伊豆半島からの侵入路をとらず、相模湾から直接平塚上空に入って来た。多分、電探(レーダー)を避けるため、洋上では高度を低くとり、陸地近くになって急上昇して、平塚上空で東に旋回、京浜地区に向かったのであろう。

  いつになく不気味な爆音が、頭上を何度も通過して行った。そして、平塚市の西側にある高麗山から、探照灯に照らし出された米軍機に向けて発射される高射砲・機関砲の砲声がとどろいた。
  米軍機の落とす照明弾、地上から打ち上げられる曳光(えいこう)弾の光が、夜空を交錯した。宿舎の防空壕(ごう)はほとんど使いものにならないので、窓辺に座ったまま、花火でも見るように、わたしたちはそれを眺めていた。

  東京がその後の空襲で焼かれるときも、夜東の空が赤く染まったが、すさまじかったのは、5月29日の横浜空襲の時である。

  この日は、朝工場に出たあとすぐ、8時半に空襲警報が発令されて、わたしたちはいつもの通り防空壕に退避した。その上に座って空を見上げていると、やや北寄りの空を、西から東にB29の大群が通り過ぎて行った。空がB29で埋まっているように見えた。

  きょうはどこがやられるのだろうと、わたしたちはうつろな気持ちでそれを見ていた。B29が1機火の玉となった。やったと思った。しかしまた小型機が煙を吐いて、きりもみをしながら落ちていくのも見えた。

  あれは友軍機だ、と思いながらも、誰も口には出さなかった。間もなく、東の空に黒煙が上がり始め、やがて巨大な柱となり、遂に東の空を蔽(おお)った。あとになって、B29四百数十機によって、横浜がやられたということを知った。夜になっても、東の空は赤かった。

  わたしたちは、このような日々の中でも、前と変わらずに働いた。日々は変わりなく過ぎていった。

  6月までの動員延長がさらに延びるのではないか、といううわさもときどき耳にした。やはり一刻も早く帰りたかった。機械の故障は相変わらず多かったが、修理にも上達していたし、作業自身にも慣れていたので、初めのころのように悩みの種ではなかった。

  ただ、部品の材質がますます劣化して、フレキシブル・シャフトはすぐに曲がってしまうし、カッターの切れ味はいっそう悪くなった。

  5月末といえば、もう夏である。作業は冬よりもこたえた。腰を下ろすと、2度と立ちたくないこともあった。しかし、沖縄の同胞を思え、本土決戦も間近である、という言葉をかみしめながら、働き続けた。

  公休日の数も減って、3週間に1日だけとなった。休みの前日は気が抜けて、ふらふらだった。蚊が出始めたのに蚊帳はなく、寝るのに困った。

  6月10日に、動員解除の予定日が工場より伝達された。しかし、わたしたちはまだ不安で、それがまた延びるのではないかと恐れた。上級校の入学式は7月1日であるという知らせももらっていたが、それさえも信用できなかった。

  1級下の当時の4年生が平塚に来て、わたしたちと交代するということで、6月13・14日の両日は、寮の受け入れ準備に追われた。宿舎をつめて、再び1戸に7、8名ずつ入ることにし、彼らの入る家を空けた。(つづく)


  コラム

 ■映画「馬」のこと
      
  映画「馬」のロケが盛岡中心に行われた。
  山本嘉次郎監督で、なんと助監督が黒沢明で主演高峰秀子。馬に乗って駆けるシーンでは小岩井農場職員の娘さんが代役で出ていると聞き、小岩井出身の同級生戸田君に、姉さんかと尋ねたら違うとのこと。

  もう一人の菅原君のほうでもなかった。結局誰ということは分からずじまい。( 川守田 進)
 
 ■偉い先生の来校(昭和18年)
      
  新田校長から物理担当の「偉い先生」として紹介されたのは太田達人先生。
  同級に太田愛人君がいるが、愛人君は全然関係ないとのことだった。
  昔の東大で、科は違うが夏目漱石とは大の親友だったと、ある本には書かれていた。
  耳の遠い先生だったが、話が面白かった。水の潜熱の講義で、ヒートオブバーバルゼーションが頭に残っている。(川守田 進)

 ■太田達人先生のこと

太田先生のことはわたしは全く記憶にない。というのは、あるクラスだけのほんの一時期だけのお手伝いだったのかもしれない。それにしても大先生の講義、わたしも聞きたかった。

太田先生は盛中創設期の明治16年卒で、東京帝大理科を出られ、大阪府立一中校長も務められた人。昭和20年6月に亡くなられたと同窓会名簿にある。

母校の教壇にちょっとだけ立たれたのはその2年前ということになる。御年80歳だったか。
盛岡中学に正式に勤務されたのは大正11年から14年までと記録されている。(佐藤 洸)



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